2026年夏アニメについて 2.『きみが死ぬまで恋をしたい』

百合作品は次第に性的過激さを増しているように見える。いや、『桜Trick』はキスしまくっているではないかという反論はおいておこう。『転生王女と天才令嬢の魔法革命』(略して転天)のレズベッドシーンはTwitterで延々と海外の人たちに擦られているし、わたなれはスパダリに初っ端からレイプされる。見世物性が増しているともいえるし、LGBTQの理解によって直接的にレズビアンを設定に取り入れる作品が増えている(『超かぐや姫!』など)ともいえる。この二つは両立できそうにないが、どうも両立しているように見えるのである。世俗化と世俗化の手前の社会的了解の綱引き、一足飛びにエロティシズムに行くか、エロティシズムの既存の表象に対し一旦判断中止して性的指向の一つとして穏当に組み込むか。『わたなれ』とはその駆け引きと葛藤の表現とも捉えられる。この作品は青年漫画的な性表現に包んで同性愛を提示しつつ、性的指向としての同性愛の理解を試みている。そして更に進んで同性愛に限らず性愛とは何なのかというテーマに取り組んでいる。れな子の戸惑いとは、性愛とは何なのか、その規範をどう自己と関係づけていくのかの苦悶であり(それは性自認や性的指向を対象にしているのではなく、社会と自己の関係、自己を成り立たせる条件(れな子の場合学校制度が個人に課す規範も性愛と同次元の条件)への意識、その葛藤)、見世物的見かけとは裏腹にかなり深刻な性の問い直しの作業なのである。

オタクにおけるレズ表象がエロスの前景化に乗るか、エロスの前景化の背景に焦点を当てる手がかりになるかはわからない。『きみ死ぬ』は同性愛を戦争という極限状況が生む性愛の形式と規定しているように見える危険な作品である。それは同性愛を現今の社会通念上で不自然なく導入するために戦争という異端を必要としているように見える。しかし当然ながらこの作品は同性愛は異端だとか禁止故に燃え上がるとかという古風な理論を訴えたいのではなく(そうであるなら女性同士のキスにもっと抵抗を感じていいし、性自認が男の女性を出す必要もないのである)、あくまで自然に発生する他者への愛着の一形態として描き出したいのである。そういうとわたなれと同じく同性愛をエロスではなくもっと広い関係として描いているといえそうだが、残念ながらわたなれほどは深度がない。というのは他者への愛、恋愛欲求が前提として存在しており、その方向づけが疑われることはないからである。

ただ『きみ死ぬ』には興味深い点があり、それはゼロ年代のセカイ系を現在の百合作品の体系に組み込もうとする点である。ミミはKey的な電波系少女であり、セカイ系の快楽は現在でも通用するのかという実験でもある。ミミが電波系だとすると、その恋愛はロリコンのタブーと接触する。実際ミミはロリなのである。そして主人公は父権喪失の男性主人公と同じく非力である。方向性としては、新海作品と同じく力の獲得に向かうポストセカイ系の構図が看取される。となるとこの作品はアメリカに自衛隊を徴発させられる日本の姿をハリー・ポッター風の魔法学校を外形にして描き出していることになる。そして保守独立を促しているわけだ。といってみたところでそれ以上指摘できないのだが、セカイ系が現在の我々に何を訴えうるのかはよく考えなければならない。ポストアポカリプスという近代の崩壊後かポストセカイ系の近代の延長か、覇権主義の強まる現在において後者の方がリアリティを持ちうるという考えもあるが、そうした反映以上の効果を作品が具備するかどうかが重要なのだろう。

そして私はこの作品から何か新しい感覚を掴むことはできなかった。『わた推し』と同じく既存のジャンル内で異性愛を同性愛に置き換える以上の積極的意味付け、相互作用を感じなかった。けれども常に思うのだが創作とは難しく、現在『無職転生』が批判されていることから判るように、個人だけで作るよりは編集を介したほうがマシになるとはいえ、マシになったところで限界内での調整に過ぎなかったりするわけである。となると、新海のようにセカイ系を調理し直したところでスぺクタル以上のものが出なかったりする。なので私が今注目しているのは恋愛というテーマの焦点化であり、それが百合作品によって探求され、他者との関係の複層性や身体パフォーマンスの可能性や欲望の多様性といった個人性の問題が展開されていくことに期待しているわけである。それが学園ラブコメラノベのようにポストセカイ系としての父権復権(ダジャレ?)では権威主義的でつまらないわけで、百合ラノベとして『わたなれ』が出てきたことに希望を見出しているのである。

2026年夏アニメについて 1.『これ描いて死ね』

日記でも書こうかと思ったのだが、特に私生活に面白い点が見当たらなかったのでアニメの感想でも書こうかと思う。

というのも私の趣味はアニメ鑑賞で、もはやその趣味以外に充実した内容を持つものは同じく趣味の読書ぐらいなものである。趣味以外に内容を持たない人生というのも空虚である。しかし労働が時間を奪う、というより人生の主権を握っている現状では趣味にしか生きがいがない。その趣味とやらも消費という経済活動に資する営みで、どちらにせよ国家の用意した活性化システムの一部なのだという諦観が見えてくる。それ以外には恋愛という生きがいの選択肢がある。もちろんそれも生殖という国家に有益な行為に繋がる。で、こうして淡々と大きなものに規定されている個人を想像してはニヒルな気分になっているのだが、ブログを付けるといった語りや言表だけは主体的な行いだと信じたくはなる。ということは創作行為とはコミュニケーションの受け手がどう反応するかより、創作そのものが自由の確認であり、意志の痕跡という点で意味があるのだろう。

そう考えると、『これ描いて死ね』が示さなければならないのは、趣味として創作の結果を伝えようとしている同人誌作家かプロ商業作家かの選択ではなく、描くということそれ自体の価値なのだろう。この作品がどの方向に進むのかは原作未読なのでわからないが、アニメを見終わった私には懸念が残った。プロを目指したがっているように見える主人公とプロに戻ろうとするような先生の様子は形式的な様相に留まっているように映るのである。

音楽でさえ大衆的な音楽が存在しなくなっている現在、作品の創作は個人的なものになっているのではないか。それはマスの獲得を目指す少年誌を時代遅れに見せ、同人誌即売会の自己完結的な「好き」の表現こそ現代的ではないかと思わせる。もちろん好きか嫌いか、好きなものを形作る必要があるのかとか、その規格が創作に備わっているのかどうかは疑っていいし、実際創作は先に言った意味で、つまり自由な主体の確認という目的で充分なのである。そんな時代にプロとは何なのか、この職業形態、商業が生き残るには創造行為をどう位置付けるべきなのか、流通の特権に過ぎないものをどうイデオロギーにして見せるのかなど様々に工夫を凝らすのである。私は『これ描いて死ね』にそのイデオローグを見出さないわけにはいかなかった。そしておそらくアニメ化の範囲内では成功していない。作品を作りたいという欲求を描くだけでは商業の意義は見えてこないからである。なぜあなたは自分の創作を商業的価値と結び付けたいのかが問われなければならず、そして残念なことにマスを失った時代で商業的価値の地位は落ちている。大義として出版社は個人の好きを各自それが刺さる人に伝えられますよという透明なメディアになろうとしている。その大義を広報することがこの作品の最終的な地点なのかどうかわからないが、アニメ化の範囲では技能という基礎的な形式の修練を描くに留まった。その技能の実在はどうしても死守しなければならない規範であり、その擁護が商業の存命に係わってもいる。

こうした皮肉な語りで始めてしまったが、『これ描いて死ね』は『ゆるキャン△』の漫画家版と考えていい。それなら漫画家を描いている『mono』の方が近いじゃないかと言われるとまぁそうである。どちらの作品も日常系が聖地巡礼という手段を経るなどして経済に貢献する作品である。連載が進むにつれ地方局の夕方のニュース番組みたいな(直接的には水曜どうでしょうの影響なのだが)、観光やお店の紹介になっていく。『星屑テレパス』は日常系だが、経済どころかロケット開発という国家事業に連なる自己投企が描かれている。こうした日常系の社会化・経済化、もっと大きく言って合理化(手段-目的の関係が入り込む)は最近の局面である。『これ描いて死ね』も作者の故郷・伊豆大島を舞台に聖地巡礼を意識しつつ、漫画家・出版事業の存命という功利に繋がっている。

例えばそれとは似ているようで違う方向性を持つ『空色ユーティリティ』というゴルフ日常系作品がある。ゴルフ自体が趣味としても斜陽であるが、ゴルフ業界を延命させる手段として提供された作品ではなく、趣味とは何なのかを元プロゴルファーの女性を通じて描き出している作品である。つまりここではプロから趣味へ降りる女性を登場させ、その上で趣味が生きがいとして、スポーツが競争や序列化ではなく主体にとって意義を持つものとして描かれる。それは私が従属させられるものではなく、私が価値づけるものとして立ち現れる。スポーツとの新たな関係の結び直し、再構築、そして自己充足へ至る道程が示される。この主張は実際には『けいおん!』における軽音楽との付き合い方と同じもので、古風ですらある。しかし『空色ユーティリティ』をメタ日常系とするなら、『ゆるキャン△』『これ描いて死ね』はポスト日常系であり、私は前者の方が生の内実を獲得しているように思うのである。リベラル日常系とネオリベ日常系など幾らでも形容はできると思うが、私はぜひ皆さんに日常系がどう体系としてほかの体系と関係を持つか、意味付けられるかを考えてほしい。近来の社会的還元を推し進める日常系か、静的な思索的な循環的な日常系か。

この二週間のオタク的な話。まどマギ廻天等

前回の記事から二週間空いた。筈である。

最近はエアコンのいらない気温になってきたが今日は付けないと暑いくらいだ。

間隔を詰めても書くことがなく、空きすぎても集約できない。

 

オタク的な話をしようと思う。

最近街中である女性を見た。といっても女性が最初の知覚ではなく、鞄のキーホルダーが目に入ったのである。そのキーホルダーは『NEEDY GIRL OVERDOSE』という作品の超てんちゃんというらしいキャラクターのぬいぐるみである。私はこの作品を具体的に知らない。ただにゃるらというツイッタラーから生まれたゲームで、アニメ化も最近果たしたという情報だけが私にある。それでどうやら若者を中心に流行っているらしいということも知っている。なのでそのぬいぐるみに実証を見たというところなのだが、女性はよく見るとパチモノの制服みたいな服を着ている。セーラー服は襟が背中側に四角く垂れているが、その服もそうである。私は『四畳半タイムマシンブルース』の明石さんの服を連想したが、後で冷静に考えるとそれも超てんちゃんの服装なのである。しかし服まで販売されているものなのか、四畳半は販売されていることを知っているがニーディーの方は寡聞であった。こうしたコスプレまがいの服を平然と着て街中を歩くのは、男性オタクが萌えキャラのプリントTシャツを着て歩くのと大差ないのではないかと思った。というのもその服はセーラー服仕様なのだから大学生では恥ずかしくて着られないだろう。事実、その子は高校生くらいの外見である。彼女は社会と自己との間の計算を暗に行っているわけである。その打算的選好により彼女は平然とその服装で、少女趣味というオタクの所有するイメージとメンヘラというイメージの重ね合わせである表象をまとって自己を演出している。しかし私に不可解なのは、このメンヘラという表象は女性が主体的に選び取った表象なのか、男性オタクの欲望という原初を秘めているのか分からないのである。それで彼女を見る私の目は、男性の求める女性のエロスを受容し、そのパッケージのまま自己をマゾヒスティックに痛めつけている娼婦的存在として映るのだ。こう言い切ってしまうのは彼女に失礼だが、昨今の露悪系ブームが現実の女性に与えている影響というのは深甚なものがあるかもしれないと想像するのである。

 

その点、まどマギ廻天などは反対に健康的である。セカイ系的個的内閉から他者尊重という方向性。昨今は新海に限らずこの方向性が多いのだが、もちろんこの場合、他者は個人として独立して思考できる存在なのか、その思考の結果はそのまま尊重してよいものなのかとか近代的個人主義への楽観を批判することはできる。議論、対話に全幅の信頼を置くのも違うという態度である。

それはともかく、虚淵はダンディズムの持ち主で、まどマギではまどかの立場が対立項となって上手く中和、相対化されているので新次元のように見えるのである。といっても抽象的思考や宇宙論、世界という非(超?)社会などセカイ系的、男性的難点が見えていないわけでもない。

この日記の第二の話として、私が映画館に行ってまどマギ廻天を見に行った話をしたかったのであるが、なぜか漠とした論評をしてしまった。

上映は土曜日の一番早い時間を予約した。一番早い時間といっても11時である。TOHOシネマズなどでは9時ぐらいからやってたりすると思うので、遅い方だと思う。私は『海獣の子供』や『先輩はおとこのこ』を9時か10時ぐらいに見に行った記憶がある。もちろんガラガラである。ガラガラな映画館で米津の歌の響くのを聞くのは先取りした廃墟の美ともいえる感慨があった。

それはともかく映画館に着くと大変な人混みである。何作品もの入場を同時にするので長蛇の列が出来上がっている。私はてっきりその映画館はまどマギのドでか装飾で埋め尽くされていると勘違いしていたので、行ってみるとノーランの『オデュッセイア』のつまらぬ宣伝がガラス窓に連なっているだけでがっかりした。しかし各キャラの(6人の)ポスターが額に入れられて入口近くに吊り下がっていたのでそれを写真に撮ろうとした。スマホの画面を覗くと妙に白くぼやけている。はたと思い至って裏面のレンズを見るとガムの残りカスがくっついている。というのも私は就寝前にキシリトールガムを噛んでしまうのだが、少し前にガムを包装紙に吐き捨てて手に持ったまま眠りこけてしまった。眠たかったのである。起きてみると蒲団にガムがくっついている。蒲団の上に置いたスマホにもガムがくっついている。寝返りの技巧というべきガムの再分配が夜の生理によって起きていたのである。それをそのままにしておいたものだから、この大事な時に写真を撮れない事態に立ち至った。平静を装ってレンズを手でこすると若干の白みを残しつつ比較的写りがよくなったので魔法少女の公衆の場での露出を無事収めることができた。

私が話したいのは、その時後ろで聞こえた女性の声である。「あれ? あぁまどマギやってるんや」という何ともない声なのだが、ちらと見るとその女性は子供連れの母親なのである。私は心の中で動揺した。なぜ40前後の女性がまどマギを知っているのか。まどマギとは2011年の深夜アニメで、流行はしたがそれはTwitter上の世界の話で、「なんやプリキュアか」みたいな常識の確認みたいに日常発話されることなどない作品ではないのか。と、その時は動揺したのだが、そういえば去年夕方5時からMBS、TBSで放送していたことがあった。もしかするとその女性はその時に目にしたのかもしれない。と考えると別におかしいことではない。逆にそのような一般層に普及するぐらい夕方アニメの影響力は凄いのである。逆に深夜アニメは所詮深夜アニメで、周縁的にならざるを得ないのだろう。となると、『響け!ユーフォニアム』もEテレで夕方にやっていたので知名度はまどマギと五分なのかもしれない。

館内に入り通路を歩くと正面に『超かぐや姫!』の尊い三尊像が鎮座されていたのでありがたく拝んだ。『魔法使いの夜』の立体看板もあった。

土曜の朝一であったが人は多かった。『わたなれ』は満席だったが、こちらは流石に満席ではないが新海ぐらいはある(というのは私が新海の映画を見に行くのは一ヵ月以上経ってからなのでそういう印象を持っているのである)。客層はカップルが多い。土曜日だからだろうか。オタク三人組、オタクのトリニティ(三位一体)も前席に居座っている。予想通り客層は若い人が多かった。

廻天の感想は長くなるのでここには書かない。ただ改めてほむらは尊く、殆ど戦場ヶ原さんに見えてきたのだが、さやかとのカップリングの可能性を開いていたので更に尊く見えて平然と悶えてしまった。私はテレビシリーズの時からさやかはいいキャラだと思っていた。負けヒロインの青髪、不憫だが快活でこういうキャラに私は弱い。そしてキタエリの金属音のような声がいい。ほむらにときめくのは、恐らく恋する人間というのは児戯的で滑稽に見えるので愛おしさが倍加されるのであろう。こうした男オタクの記号化、変換は百合の発明であるし、まどマギが新次元を開いた所以なのだ。恋愛というのは馬鹿馬鹿しいものだという認識から社会システム、相対主義の視野が開けてくる。

このような経験談を並べたところでこの日記を締めようと思う。

日記的な記録

最近、職場の新人から、友達同士でLINEグループを作りそこで日記を投稿して見せあっているというちょっと異様な話を聞いた。異様というのは自分の一日の行動を毎日誰かに伝えているという自他不分明な、個人が融解している不気味さというべきか。それに何か自分の一日には価値があってそれを誇示せずにはいられないという心理への勝手な想像によるものなのか。プライベートという観念の強い私には考えられない行動なのだが、理解できない理由には私が複数人と混じって会話することができないというコミュニケーションレベルの問題も加えておかなければならない。言い換えれば一対一の環境では日記の共有が可能かもしれない。となるとそこまで隔絶があるのかあやふやになってきた。

不可解な理由を自己のうちに点検していけばキリがないのだが、彼らの誇示や創造行為に対して触発されないものがないでもない。それゆえブログを更新しようと思い立ったのである。このはてなブログというサービスは書くには便利だが、誰かのブログを見るにはサイトを見なければならず、サイトというスマホ時代にはしなびた響きを思い起こさなければならない。スマホで見るにはブラウザを使う。ブラウザはアプリに比べて特別感が出ない。なので今はアプリのあるnoteが覇権を取っているようだ。それで私はこの廃墟と化しそうなサイトで日記を付けようと思うのだ。理想は一週間に一回くらいは更新できることである。でなければ記録として頼りないし断片的すぎる。

 

仕事上、人の家に上がることがある。しばしば室内の汚さが気になって仕方がないときがある。数日前の家は洗面台に黒いカビか錆びかわからない汚れがおびただしくついていた。蛇口の周りにである。壁紙にも茶色い液体がかかったような汚れが、これは洗面所の外でも見受けられた。庭はアロエが蔦のように伸びて、それは私の記憶の中ではアロエなのだがアロエではなかったかもしれない。私の貧しい概念ではアロエはそこまで縦横無尽に伸びてくれないからである。そしてアロエを取り巻くのは枯れた茎で、それは庭の全面に竹のようにして立っていた。なぜ茎が土に還らずそうなっているのかもわからない。その状態のまま何十年も突き刺さっているならと考えると、生命力があるのか死んでいるのに自然が処理できないのかこれはわからない。壁紙の汚れというのも業者を呼んで変えてもらうしかないのか、自分で変えられるのかわからない。いずれにせよ見苦しいのは確かである。家を解体するのでどうでもよくなっている可能性もある。

 

今日はガス点検の業者が来た。通販の販売員のような物腰でドアの外での導入が始まる。私は礼儀を知らないのでドアを全開にはしない。半開きのまま相手を不審者に仕立てて防御の態勢を取る。これは宅配の時の仕草と同じである。しかし相手はガス点検員でいずれ室内に招くのだから全開でいいのである。向こうは暑さ対策に空調服(というのは商標名なので正確にファン付き作業服である)を着ている。彼は着てきて正解である。なぜなら私の部屋はエアコンを20度にして最大風量にしても大して冷えないからである。彼が部屋に上がって点検を始めると私は発汗し始めた。おそらくドアをしばらく開けたままにして作業をしていたので冷気が抜けたのである。それか彼が熱気をまとっていたか。

一つ困ったことが起きる。私の部屋はガス警報器が風呂場の近くについており、彼が言うには台所につけるのが好ましいというのである。この場合の好ましさには微妙な幅があり、今その場で付け替えなければならない緊急性を伴うのか、それとも事務的にそういっておかなければならないので指摘したのか測りかねるのである。少しの間沈黙が流れ、私は「そうした方がいいんですね」と事務的な方に賭けて、というより変えるのは大変なので大目に見てほしいと暗に示して言い放ったのだが、向こうは幾分不満げであった。仕事の完遂できなかった未練が周りの空気に漂った。全ての項目に異常なしと入力し、レシートのように書類をその場で印刷し私に渡してきた。この異常なしにも彼の未練が怨念のようにこもっているように見えた。業務への潔癖というのを私のような無意志な者を前にして緩和しなければならないという要請は彼自身にとって受け入れがたいものだったのかもしれないし、それを受け入れるための時間が警報機を付けるためのコンセント探しやコンセントの使用状況への質問に形を取って表現されていたのかもしれない。その粘り、駆け引きというのは実際には私が警報機移動の必要性を問いただせば分明になって了解し合える話なのである。私はこういう折に物事を、相手の真意を明らかにしようとしないので、向こうは私の不問の分まで自己の態度を伝える手間を取らなければならない。向こうが発話の意味を厳密にしてこなければそこで宙吊りになって終わるのである。そして宙吊りだから私はそのぶら下がった文章を自分の行動を促すシグナルと捉えずに、ただ過ぎ去って忘れ去られるオブジェとしてそこに捨て置かれるだけなのである。こういう微妙な沈黙、すれ違い、妥協、諦めは私の日常の至るところで見られる。こういうことが日本人の事なかれ主義や犯罪の隠ぺいや悪習の継承に繋がっているように思われ、自分の曖昧さが恥のように思われてこないでもない。

 

ここに書いたような卑近な事柄を書き留めるのが日記ということなのだと思う。しかしこれでも凝っている。本当の日記は何時に何をした。何をした。という簡素で投げやりなものなのだと思う。

リテラシーについて

雑文とはデジタル大辞泉によると「専門的でない、気軽に書き流した文章」という意味らしい。

ではネットに溢れてる文章はほとんどが雑文になるだろう。Twitterというのはその短文形式によって、またはTLという開放的なUIによって、それが教授の書いた文章であろうと専門的知識に基づく文章であろうと印象として信頼性に欠けるように映ってしまう。これは結局のところ私が前時代的なネットリテラシーをもって眺めているからなのかもしれない。

私の時代ではインターネットに顔を晒すという行為は危険だという認識があった。匿名掲示板・2chが中心であった時代、特定され顔を晒されるのは敗北であり、ハセカラ民の言葉で言えば「けんま」に繋がるリスクがあったわけである。顔を発見されることはそれが多少ルッキズム的思想を背後に持ちつつも、要するに全てのプライバシーを奪われることに等しかった。それが今や、TikTokなどでは当たり前のように全身を晒して阿呆みたいな踊りを見せつけている。ネットリテラシーとはどこへ行ったのか。リスクを同意のうえでなら発信しても構わないとか、妥協がなされたのか。

我々の時代では、顔を晒して平気そうにいるのはニコ生民に代表されるような社会不適合者であって、それは定職すらないヤンキーみたいなものだから倫理観が欠如しているのだとみなされていた。2chを含めネット空間は便所の落書きであり、そこに顔を晒して酒を飲んでグダグダ配信している連中はホームレスみたいなものであった。

インターネット産業に資本が投入され、SNSが発達すると何か治安が良くなったように外面が整えられ、そこでは安心して踊り狂う自分の姿を晒してもいいし、近所のカフェでスイーツを食べたとか気軽に発信していいかのように認知が変わってきた。

しかし本当にそうなのだろうか。

なんJ後継掲示板・エッヂではオフ会を開くのにもかなりの警戒をして行われるし、失敗もある。失敗というのは待ち合わせ場所で待っている主催者を撮影して晒すなど攻撃が行われるケースである。

野球選手のインスタ垢にファンが誹謗中傷DMを送り付けるのは常態化しているし、Twitterの暴露アカウントには大勢のフォロワーがいる。我々のネット空間はちっとも安全な場所になっていないのである。リテラシーが上がったというのも嘘だろう。インターネット空間は現実と同じように汚い世界であって、夜の電車に乗れば酒に酔って寝転がってる人を見るように、この世界は理性的な人間が理性的に行動する世界ではない。

Twitterの文章を読むときはそれが正しい情報だと思って読んではいけない。それは他の視点で見れば別の解釈のできることを決めつけて断定しているだけかもしれないし、間違っているからバズっているツイートかもしれない。Twitterは常に不確定な意見が流れている場所で、そのようなリテラシーをもって覗くと、仮に大学教授の文章でも信用できなかったり、専門的な内容でも雑文として処理されるべき場なのだ。インターネットの文章全般に言えることで、この信頼性のなさが私からすれば私が教わったリテラシーなのである。

それが最近はnoteなどで専門的な内容を匂わせて有料記事を書いたり、そうした類の記事が公開されているが、それもまた疑いの目をもって見なければならない。

このネット不信ともいうべき態度は、出会い系マッチングアプリなどもその対象に入る。我々の時代では出会い系サイトはいかがわしいサイトで、ヤクザが出てこないとも限らないから使うべきではないという認識だった。大企業が運営しているから安全だなどといった言説は、とてもではないが信用できないのである。Amazonで法外な値段の商品が売られていたり、メルカリでマネロンが横行しているのに、人間の展示場にまともな人間が並んでいると信じられるのか。

ネット不信であり人間不信ですらあるこの態度が正しいかどうかはわからない。見方を変えるとアナーキーな態度かもしれない。しかし少なくともリスクを限りなく減らした生活の実践できることは確かである。私の世界は大概人間同士が違う向きで交差し続けている無機質な世界で、つながりやコミュニティの理想が入り込む余地のない個人化の行き着く果てであるかのように思われる。

エッヂについて

なんJというとそれなりに知名度はあるが、エッヂというとほとんどの人が知らないと答えそうだ。

まとめサイトへの転載は5ch(というと知らない人が多そうだが旧2chである。ひろゆきからジム・ワトキンスへ体制が移ったか何かで名称が変わった)は許可されているが、エッヂは許可されてないはずである。それに加えて専ブラやアプリでアクセスしないと使い勝手が悪い(これは5chもそうなのだが)ので元々なんJにいた人がユーザーの主であって新規が増える可能性はほぼない。そもそもスマホ時代にSNSでなく掲示板を利用しようと思う人はいないだろう(爆サイというサイトは利用者がいるらしいが)。要するに限界集落化の一途しか辿っていないのである。

で、そんなエッヂでも実況民は揃っているものでテレビ番組で面白いものがあるとスレが伸びたりする。野球中継や深夜アニメが基本だがNHKのドキュメンタリーなども伸びる。実況以外では大きな事件がある時なども伸びる。少し面白いのはTwitterでは触れられてないネタがエッヂでは盛り上がっていることがある。つまり誰かが情報をキャッチしてそれをネタにスレを立て、それが伸びることがある。

そういう独自の生態系を持つエッヂだが、Twitterでエッヂネタを話している人もいないし、外に拡張していくことがない。閉鎖的縮小的で隠遁的ともいえる。

そもそも5chがグロ画像爆撃やAI文章投下で死んだ後「さんG」、「防弾」や「ぷにぷに」、「なんE(エッジ)」の分化・難民時期を経てエッヂに至っているので、インターネットリテラシーの高い人が集まっている点や、嫌儲民(けんもめん)・なんJ民の合流なども考慮に入れておく必要がある。そのため文化としては自治文化、左翼的思想を要素として持っているといえる。

インターネットリテラシーが高いというのは、5chスクリプト爆撃後に「Talk」という掲示板への誘導(5ch専ブラが自動的にTalkに切り替わるなど)が行われ、多少陰謀論的ではあるがそのTalk管理人が爆撃を仕組んだ(まとめブログなどアフィリエイトと組んで5chユーザーを誘導した)と看做され難民期に入った経緯があり、扇動されることへの警戒感が強いのである。余談だがTalk管理人は大阪在住だったと思う(けんま対象になりかけていたと思う)。情報のソースを確認したり、アフィリエイトかそうでないかを警戒したりする文化自体はなんJの頃からあるのだろう。2chの歴史はアフィリエイトとの闘いによって進んできたのであってエッヂにおいて(言い換えれば転載禁止の閉鎖空間を作ることによって)終結したといえるのかもしれない。

自治意識の高さはなんJからなんG(なんJが落ちた際に同じ5ch内で移動した)に移った当初に由来するのではないか。なんG移行当初は避難所が分かれてユーザーが少なく、ここをどういう板にするのか議論される時期があった。なんJの煽り文化はアフィリエイトの生んだもので、もっと健康的な文化を作るべきだという共通認識が醸成されつつあった。スレ数も少なく特定の人が回しているような雰囲気もあり、人間対人間の居心地のよさがあったと思う。防弾かエッジかは忘れたが自治が行きすぎて規制が拡大した時期もあった。管理人が運営に積極的な場合もそうした規制がなされる恐れがありバランスの難しい問題ではある。エッヂでは自治はアンチアフィの意識として残りつつも、管理人が規制をかけるということはなく放任主義になった。

「〇〇ガイジ」という呼び名をつけてNGを促すのも自治文化であって、エッヂ移行後は承認の手続きが必要なことからガイジは減ったと見做されてるがそれでも様々なネームド(自称しているのではなく名前を付けられる)が生まれては消えていった。ネット右翼的スレを立てる「ムクガイジ」はエッヂ移行後も健在のようだが、これも本当にひとりの人物が立てているのかわからないが、呼称の機能としてはネトウヨ的言説への扇動を警戒する意義がある。弱者男性やアンチフェミ、チーズ牛丼などもムクガイジの創作した言説と看做され、そうしたなんJ由来の煽り文化を排除する意図が見られる。なんJ文化の総括はなんG移行期やその後の分裂・難民期になされ、嫌儲民が合流するなかで合意形成された節がある。

よってTwitterにおける暇空の流行はエッヂにおいては批判的に見られていた。なんJがTwitterに流れ猛威を振るっているなか、なんJ後継集団はそうした言説と決別していたわけである。

左翼的思想という要素でいうと、安倍晋三連呼ミームが著名である。著名というのはこれはある程度ニコニコやTwitterに波及している面があるからだ。ミームというより安倍晋三の文字を投稿するという行動が流行したのである。それは左翼的思想の表れであるが、自治意識・アンチアフィリエイトの文脈も含んでいる。というのは安倍晋三の文字のみを皆が投稿することでそのスレをナンセンスにすることができ、ムク的スレやアフィスレの疑いのあるスレを盛り上がらせないためにそうした行動を取ったのである。

韓国の統一教会との繋がりが明るみになったこともあり、ネトウヨ言説は自己矛盾に陥ってしまう。ネトウヨ的スレに安倍晋三を投稿することは自己矛盾を突きつけることと同義なのである。

かといって嫌儲民的政治批判意識から安倍晋三が使用されているのではなく、なんJ的ユーモアも伴っている。アフィ臭いスレにそのテーマと関連する安倍晋三の画像を投稿するのはなんJ的である。森羅万象担当大臣を自認していた安倍晋三を、無数にある画像を活用してあらゆるテーマに沿った安倍晋三画像を投稿することで森羅万象を司っているかのように見せるというのはなんJ的ユーモアであろう。また必要以上に政治の問題に触れず、安倍晋三の文字だけ投稿するというのも長文の多い嫌儲と違って実況民としてのなんJ文化と繋がるものがある。

安倍晋三の過去の発言、所謂安倍晋三語録を使いこなすのがエッヂの素養である。語録だけが広がって元の発言の文脈が忘れられる場合もある。例えば「いいスレですから前に進めてください」という語録は安倍晋三ではなく昭恵夫人が籠池に言った言葉の変形だが忘れられることがある。また、Twitterにも語録の使い手が流入し、右翼インフルエンサーに語録をリプし、批判を引き出して自己矛盾に陥らせるという遊びもある。

レスバをナンセンスにする目的から安倍晋三語録(聖帝語録ともいう)が広まった側面もある。なんJの対立煽り、レスバ文化への反省から、攻撃的なレスが飛んできても「そんなに興奮しないでください」等語録を使うことで不毛な争いを避けることができる。ミーム・記号化とはメタ視点の導入であり、客観化作用を持つのだ。

現在エッヂではムクガイジによって生まれた鳩山ガイジなる存在がいる。彼は安倍晋三ムーブメントに対抗し、彼が左翼の弱点だと考えている鳩山由紀夫をスレに連投することでネトウヨを復権しようとしている人物である。ムクと異なり単独の人物であることが確定しており、安倍政権の問題が鳩山由紀夫を想起することで相殺されることもなく、当然大勢を占めることはできなかった。ムクに影響を受けた点からも想像できるようにリテラシーが低く、色々と脇が甘かったこともあり、個人情報を特定されている。こちらも大阪の人らしい。

鳩山ガイジの問題は社会の問題が織り込まれているともいえるし、なんJ文化の総括として象徴的ですらあるのだが、彼は自ら告白したところによると障がい者であり母子家庭でもある。けんました人もいるが、リベラルなエッヂ民の多くは彼に同情している。実際のところエッヂには発達障害者や生きづらさを抱えた人が多い。

エッヂの文化面については具体的に安倍晋三と鳩山ガイジしか触れられてないが、またブログを書く機会があればそれについて書こうかと思う。大規模でない閉鎖的コミュニティなのにミームが生まれる頻度は高く、それが外には漏れ出ない特殊な環境であることを強調しておきたい。野球に関してはYoutubeやTwitterの後追いの部分もあり、その意味では発生地というより後進地である。ただその他のジャンルではミームが生まれる。エッヂの閉鎖性は5ch同様匿名コミュニティであることと関係しており、外への拡散を望まない姿勢があるので、私もこのブログが多くの人に見られると想定せず書いており、その前提に立っているので書けているということを付言しておきたい。

アニメ『WORKING!!』について

前回は『日常』について語ったが、今回は『WORKING!!』について話そうと思う。

このブログは雑文であって、自分の思い出と絡めて語る形式であることを一応言っておきたい。

『WORKING!!』というと、私は2011年オタク(この名称に代わるものがないのか検討してみてほしい。まどマギ世代という表現もあるが、個人的にはまどマギよりシュタゲに感動を覚えた記憶がある。いずれにせよこの年はなぜか象徴的なのである)なので2期(2011)から入った口である。2期を見終わって1期を見た記憶があるが、これは『イカ娘』(2011)も同じ順序であった。

『WORKING!!』2期の後に同じ作者の『サーバント×サービス』(2013)がアニメ化され、その後に3期(2015)が放送された。どれも制作はA-1Picturesで、原作の絵が『みなみけ』のようなのに、特徴を残しながらも可愛く仕上げているのが流石というべきだろうか。

『サーバント×サービス』は公務員という職業を描く点で、有川浩『県庁おもてなし課』や辻村深月『ハケンアニメ!』を連想するが、女性が公務員もののラブコメを描きがちなのには理由があるのだろうか。いずれにせよこの作品は鳴かず飛ばずで終わってしまったのだが、私見では主人公が地味過ぎたのが原因ではないかと思っている。『WORKING!!』に比べるとキャラが薄いか二番煎じに映ったのか本当のところはわからないが、男性が見ても萌えられるキャラがいないとヒットしないのは間違いないだろう。ちなみにOPの作曲家・田中秀和は強制わいせつで有罪になった。ハナヤマタのOPといい、神前暁の弟子として優れたアニソンを作っていただけに衝撃は大きかった。これはちなみにである。

『WORKING!!』は2期までしか見ておらず、というのも2015年にはアニメから離れてしまっていたからで、この間ようやく3期を見たのだった。

山田が一番可愛いということしか覚えていなかったが、3期はなんと山田の物語が入っている。そしてそれがこの作品に似合わず感動的なのである。

そもそも山田は家出少女であり、ファミレスの屋根裏に住むヤバい子であり、山田も偽名というヤバい子なのだが3期ではその家出の謎が明かされる。山田の家出は無口で恐い母親から勉強をしろと圧力をかけられ逃避した結果なのだった。このエピソードは子供の読者・視聴者には共感しやすいのではないか。ファミレスという学生・生徒たちの入りやすいバイト先を舞台とし、そこでの恋愛は自分にも起こりうるかもしれないと淡い夢を見させてくれるのが本作の魅力でもあるのだから。

山田は今だとトー横キッズのような不良少女としてデザインされると思うが、この当時は健全が主流だったので山田も親の問題を抱えながら却って明るく振舞う健気な少女である。山田の機能は主人公たち高校生組よりも下の子供たちの共感先であると同時に、高校生組が一向に受験に触れないので彼女が学業競争を生きる子供たち(高校生を含む)の意識を反映している側面もある。

佐藤と八千代の恋愛は大学生かそれ以上の年齢層に受けるようになっているし、この作品が年齢的にも包括的な、まさにファミレス的な大衆性、総合性を有していることがわかる。このハイブリッド感は公務員では出せないだろう。『コンビニ人間』と同じくファミレスというのはあらゆる人々の共感を呼べるし、コンビニよりも家的な暖かい雰囲気も醸し出せる最適な舞台設定だった。学園ラブコメにおける部活動と同じで、それは共同体の理想なのだろう。というより共同体を切実に求める運動の帰結なのだ。

男性作者は既存の記号で遊びがちだが、女性作者は私がその文脈を知らないだけかもしれないが、現実の環境を反映するのが巧みな印象がある。『先輩はおとこのこ』や『スキップとローファー』、『その着せ替え人形は恋をする』『僕の心のヤバいやつ』など、現代の環境を意識しつつ等身大の人間やその心情を描くのが上手い作品が多い。『WORKING!!』も主人公は幼女を可愛いと思うオタクでその性癖を自分で咀嚼できずにいるが、そんな悩みを男性オタクが自分で思考し告白したことがあっただろうか。『先輩はおとこのこ』の主人公は女装癖があり可愛いものが好きだが、これは『WORKING!!』の主人公も同じである。女性向け作品にこのタイプの男性キャラがいて、一種の記号なのだと指摘できるかもしれないが、その葛藤も含めて記号だとしてもそれを男性オタクが我がごととして吸収し、描写したことがあっただろうか。そうした点で本作は、キャラ=記号の交錯であると同時にそれぞれが自分とは何かを考える現実的主体の物語でもある。

もちろん登場人物に変人が多く、各々葛藤と向き合っていくという作りはエロゲ的でもあり、男性オタク作品の文脈と絶縁しているわけではない。だからこそ本作は男性オタクにも支持されたのである。主人公を男性にしているのもエロゲと少女漫画(か?)の接続の意図を感じる(というより掲載誌が青年誌なのでそうせざるを得なかったのだろう。男性向けに擬態したのだ)。ついでに言うと『マケイン』はこの三人称ラブコメをラノベに輸入してやっている(マケインもアニメ化はA-1である)。『WORKING!!』の優れていた点は男女どちらが見ても萌え/キュンできるバリアフリー性だが、一対一ラブコメはカップリングが単一で一人称的ではあるもののその点は同じであり先駆的だったように思われる。

エロゲを含め、オタクにとっての恋愛とは自分の欲望に気づいたり自分の限界に気づいたり自我の芽生えと成長の表現であって、父性との向き合いなのだと思う。それを繊細に描ける筆力が求められるわけである。とはいえそんな文芸性は一対一ラブコメには基本見られないし、百合作品に拠点を移した観があるが。

散らかった文章になったが、気になる部分も本作にはある。

男性側は基本的に有能な人間が多く、王子様的表現が見られる。山田の兄だけは遊び人だが、彼は母のことをどう思っているか曖昧だし、いまいち人柄がわからない。唯一の非-王子様キャラがキャラ立ちしていないので、全体的に見るとそうした偏りが指摘されうる。また、佐藤がいきなり八千代を抱擁する場面もちょっとヒヤッとしてしまう。『山田くんとlv999の恋をする』でも、いきなり山田が「自分の恋心、バレちゃったか(てへぺろ)」とイケメン仕草をして驚いたことがあったが、それは多分にフィクショナル・記号的である。それで女性読者がキュンとできてしまうので別にいいといえばいいのだが、その人物の起こしそうな行動から逸脱しているように見えて気になるのだ。予想の裏切りが定型に陥るのは残念ではないか。

くどくど述べたが、『WORKING!!』はラブコメアニメ界の金字塔であることは誰もが認めるだろう。3クールもあるが、胸キュン必至、アニメの教養としてもそうだがおすすめ作品である。