リテラシーについて

雑文とはデジタル大辞泉によると「専門的でない、気軽に書き流した文章」という意味らしい。

ではネットに溢れてる文章はほとんどが雑文になるだろう。Twitterというのはその短文形式によって、またはTLという開放的なUIによって、それが教授の書いた文章であろうと専門的知識に基づく文章であろうと印象として信頼性に欠けるように映ってしまう。これは結局のところ私が前時代的なネットリテラシーをもって眺めているからなのかもしれない。

私の時代ではインターネットに顔を晒すという行為は危険だという認識があった。匿名掲示板・2chが中心であった時代、特定され顔を晒されるのは敗北であり、ハセカラ民の言葉で言えば「けんま」に繋がるリスクがあったわけである。顔を発見されることはそれが多少ルッキズム的思想を背後に持ちつつも、要するに全てのプライバシーを奪われることに等しかった。それが今や、TikTokなどでは当たり前のように全身を晒して阿呆みたいな踊りを見せつけている。ネットリテラシーとはどこへ行ったのか。リスクを同意のうえでなら発信しても構わないとか、妥協がなされたのか。

我々の時代では、顔を晒して平気そうにいるのはニコ生民に代表されるような社会不適合者であって、それは定職すらないヤンキーみたいなものだから倫理観が欠如しているのだとみなされていた。2chを含めネット空間は便所の落書きであり、そこに顔を晒して酒を飲んでグダグダ配信している連中はホームレスみたいなものであった。

インターネット産業に資本が投入され、SNSが発達すると何か治安が良くなったように外面が整えられ、そこでは安心して踊り狂う自分の姿を晒してもいいし、近所のカフェでスイーツを食べたとか気軽に発信していいかのように認知が変わってきた。

しかし本当にそうなのだろうか。

なんJ後継掲示板・エッヂではオフ会を開くのにもかなりの警戒をして行われるし、失敗もある。失敗というのは待ち合わせ場所で待っている主催者を撮影して晒すなど攻撃が行われるケースである。

野球選手のインスタ垢にファンが誹謗中傷DMを送り付けるのは常態化しているし、Twitterの暴露アカウントには大勢のフォロワーがいる。我々のネット空間はちっとも安全な場所になっていないのである。リテラシーが上がったというのも嘘だろう。インターネット空間は現実と同じように汚い世界であって、夜の電車に乗れば酒に酔って寝転がってる人を見るように、この世界は理性的な人間が理性的に行動する世界ではない。

Twitterの文章を読むときはそれが正しい情報だと思って読んではいけない。それは他の視点で見れば別の解釈のできることを決めつけて断定しているだけかもしれないし、間違っているからバズっているツイートかもしれない。Twitterは常に不確定な意見が流れている場所で、そのようなリテラシーをもって覗くと、仮に大学教授の文章でも信用できなかったり、専門的な内容でも雑文として処理されるべき場なのだ。インターネットの文章全般に言えることで、この信頼性のなさが私からすれば私が教わったリテラシーなのである。

それが最近はnoteなどで専門的な内容を匂わせて有料記事を書いたり、そうした類の記事が公開されているが、それもまた疑いの目をもって見なければならない。

このネット不信ともいうべき態度は、出会い系マッチングアプリなどもその対象に入る。我々の時代では出会い系サイトはいかがわしいサイトで、ヤクザが出てこないとも限らないから使うべきではないという認識だった。大企業が運営しているから安全だなどといった言説は、とてもではないが信用できないのである。Amazonで法外な値段の商品が売られていたり、メルカリでマネロンが横行しているのに、人間の展示場にまともな人間が並んでいると信じられるのか。

ネット不信であり人間不信ですらあるこの態度が正しいかどうかはわからない。見方を変えるとアナーキーな態度かもしれない。しかし少なくともリスクを限りなく減らした生活の実践できることは確かである。私の世界は大概人間同士が違う向きで交差し続けている無機質な世界で、つながりやコミュニティの理想が入り込む余地のない個人化の行き着く果てであるかのように思われる。

エッヂについて

なんJというとそれなりに知名度はあるが、エッヂというとほとんどの人が知らないと答えそうだ。

まとめサイトへの転載は5ch(というと知らない人が多そうだが旧2chである。ひろゆきからジム・ワトキンスへ体制が移ったか何かで名称が変わった)は許可されているが、エッヂは許可されてないはずである。それに加えて専ブラやアプリでアクセスしないと使い勝手が悪い(これは5chもそうなのだが)ので元々なんJにいた人がユーザーの主であって新規が増える可能性はほぼない。そもそもスマホ時代にSNSでなく掲示板を利用しようと思う人はいないだろう(爆サイというサイトは利用者がいるらしいが)。要するに限界集落化の一途しか辿っていないのである。

で、そんなエッヂでも実況民は揃っているものでテレビ番組で面白いものがあるとスレが伸びたりする。野球中継や深夜アニメが基本だがNHKのドキュメンタリーなども伸びる。実況以外では大きな事件がある時なども伸びる。少し面白いのはTwitterでは触れられてないネタがエッヂでは盛り上がっていることがある。つまり誰かが情報をキャッチしてそれをネタにスレを立て、それが伸びることがある。

そういう独自の生態系を持つエッヂだが、Twitterでエッヂネタを話している人もいないし、外に拡張していくことがない。閉鎖的縮小的で隠遁的ともいえる。

そもそも5chがグロ画像爆撃やAI文章投下で死んだ後「さんG」、「防弾」や「ぷにぷに」、「なんE(エッジ)」の分化・難民時期を経てエッヂに至っているので、インターネットリテラシーの高い人が集まっている点や、嫌儲民(けんもめん)・なんJ民の合流なども考慮に入れておく必要がある。そのため文化としては自治文化、左翼的思想を要素として持っているといえる。

インターネットリテラシーが高いというのは、5chスクリプト爆撃後に「Talk」という掲示板への誘導(5ch専ブラが自動的にTalkに切り替わるなど)が行われ、多少陰謀論的ではあるがそのTalk管理人が爆撃を仕組んだ(まとめブログなどアフィリエイトと組んで5chユーザーを誘導した)と看做され難民期に入った経緯があり、扇動されることへの警戒感が強いのである。余談だがTalk管理人は大阪在住だったと思う(けんま対象になりかけていたと思う)。情報のソースを確認したり、アフィリエイトかそうでないかを警戒したりする文化自体はなんJの頃からあるのだろう。2chの歴史はアフィリエイトとの闘いによって進んできたのであってエッヂにおいて(言い換えれば転載禁止の閉鎖空間を作ることによって)終結したといえるのかもしれない。

自治意識の高さはなんJからなんG(なんJが落ちた際に同じ5ch内で移動した)に移った当初に由来するのではないか。なんG移行当初は避難所が分かれてユーザーが少なく、ここをどういう板にするのか議論される時期があった。なんJの煽り文化はアフィリエイトの生んだもので、もっと健康的な文化を作るべきだという共通認識が醸成されつつあった。スレ数も少なく特定の人が回しているような雰囲気もあり、人間対人間の居心地のよさがあったと思う。防弾かエッジかは忘れたが自治が行きすぎて規制が拡大した時期もあった。管理人が運営に積極的な場合もそうした規制がなされる恐れがありバランスの難しい問題ではある。エッヂでは自治はアンチアフィの意識として残りつつも、管理人が規制をかけるということはなく放任主義になった。

「〇〇ガイジ」という呼び名をつけてNGを促すのも自治文化であって、エッヂ移行後は承認の手続きが必要なことからガイジは減ったと見做されてるがそれでも様々なネームド(自称しているのではなく名前を付けられる)が生まれては消えていった。ネット右翼的スレを立てる「ムクガイジ」はエッヂ移行後も健在のようだが、これも本当にひとりの人物が立てているのかわからないが、呼称の機能としてはネトウヨ的言説への扇動を警戒する意義がある。弱者男性やアンチフェミ、チーズ牛丼などもムクガイジの創作した言説と看做され、そうしたなんJ由来の煽り文化を排除する意図が見られる。なんJ文化の総括はなんG移行期やその後の分裂・難民期になされ、嫌儲民が合流するなかで合意形成された節がある。

よってTwitterにおける暇空の流行はエッヂにおいては批判的に見られていた。なんJがTwitterに流れ猛威を振るっているなか、なんJ後継集団はそうした言説と決別していたわけである。

左翼的思想という要素でいうと、安倍晋三連呼ミームが著名である。著名というのはこれはある程度ニコニコやTwitterに波及している面があるからだ。ミームというより安倍晋三の文字を投稿するという行動が流行したのである。それは左翼的思想の表れであるが、自治意識・アンチアフィリエイトの文脈も含んでいる。というのは安倍晋三の文字のみを皆が投稿することでそのスレをナンセンスにすることができ、ムク的スレやアフィスレの疑いのあるスレを盛り上がらせないためにそうした行動を取ったのである。

韓国の統一教会との繋がりが明るみになったこともあり、ネトウヨ言説は自己矛盾に陥ってしまう。ネトウヨ的スレに安倍晋三を投稿することは自己矛盾を突きつけることと同義なのである。

かといって嫌儲民的政治批判意識から安倍晋三が使用されているのではなく、なんJ的ユーモアも伴っている。アフィ臭いスレにそのテーマと関連する安倍晋三の画像を投稿するのはなんJ的である。森羅万象担当大臣を自認していた安倍晋三を、無数にある画像を活用してあらゆるテーマに沿った安倍晋三画像を投稿することで森羅万象を司っているかのように見せるというのはなんJ的ユーモアであろう。また必要以上に政治の問題に触れず、安倍晋三の文字だけ投稿するというのも長文の多い嫌儲と違って実況民としてのなんJ文化と繋がるものがある。

安倍晋三の過去の発言、所謂安倍晋三語録を使いこなすのがエッヂの素養である。語録だけが広がって元の発言の文脈が忘れられる場合もある。例えば「いいスレですから前に進めてください」という語録は安倍晋三ではなく昭恵夫人が籠池に言った言葉の変形だが忘れられることがある。また、Twitterにも語録の使い手が流入し、右翼インフルエンサーに語録をリプし、批判を引き出して自己矛盾に陥らせるという遊びもある。

レスバをナンセンスにする目的から安倍晋三語録(聖帝語録ともいう)が広まった側面もある。なんJの対立煽り、レスバ文化への反省から、攻撃的なレスが飛んできても「そんなに興奮しないでください」等語録を使うことで不毛な争いを避けることができる。ミーム・記号化とはメタ視点の導入であり、客観化作用を持つのだ。

現在エッヂではムクガイジによって生まれた鳩山ガイジなる存在がいる。彼は安倍晋三ムーブメントに対抗し、彼が左翼の弱点だと考えている鳩山由紀夫をスレに連投することでネトウヨ復権しようとしている人物である。ムクと異なり単独の人物であることが確定しており、安倍政権の問題が鳩山由紀夫を想起することで相殺されることもなく、当然大勢を占めることはできなかった。ムクに影響を受けた点からも想像できるようにリテラシーが低く、色々と脇が甘かったこともあり、個人情報を特定されている。こちらも大阪の人らしい。

鳩山ガイジの問題は社会の問題が織り込まれているともいえるし、なんJ文化の総括として象徴的ですらあるのだが、彼は自ら告白したところによると障がい者であり母子家庭でもある。けんました人もいるが、リベラルなエッヂ民の多くは彼に同情している。実際のところエッヂには発達障害者や生きづらさを抱えた人が多い。

エッヂの文化面については具体的に安倍晋三と鳩山ガイジしか触れられてないが、またブログを書く機会があればそれについて書こうかと思う。大規模でない閉鎖的コミュニティなのにミームが生まれる頻度は高く、それが外には漏れ出ない特殊な環境であることを強調しておきたい。野球に関してはYoutubeTwitterの後追いの部分もあり、その意味では発生地というより後進地である。ただその他のジャンルではミームが生まれる。エッヂの閉鎖性は5ch同様匿名コミュニティであることと関係しており、外への拡散を望まない姿勢があるので、私もこのブログが多くの人に見られると想定せず書いており、その前提に立っているので書けているということを付言しておきたい。

アニメ『WORKING!!』について

前回は『日常』について語ったが、今回は『WORKING!!』について話そうと思う。

このブログは雑文であって、自分の思い出と絡めて語る形式であることを一応言っておきたい。

WORKING!!』というと、私は2011年オタク(この名称に代わるものがないのか検討してみてほしい。まどマギ世代という表現もあるが、個人的にはまどマギよりシュタゲに感動を覚えた記憶がある。いずれにせよこの年はなぜか象徴的なのである)なので2期(2011)から入った口である。2期を見終わって1期を見た記憶があるが、これは『イカ娘』(2011)も同じ順序であった。

WORKING!!』2期の後に同じ作者の『サーバント×サービス』(2013)がアニメ化され、その後に3期(2015)が放送された。どれも制作はA-1Picturesで、原作の絵が『みなみけ』のようなのに、特徴を残しながらも可愛く仕上げているのが流石というべきだろうか。

サーバント×サービス』は公務員という職業を描く点で、有川浩県庁おもてなし課』や辻村深月ハケンアニメ!』を連想するが、女性が公務員もののラブコメを描きがちなのには理由があるのだろうか。いずれにせよこの作品は鳴かず飛ばずで終わってしまったのだが、私見では主人公が地味過ぎたのが原因ではないかと思っている。『WORKING!!』に比べるとキャラが薄いか二番煎じに映ったのか本当のところはわからないが、男性が見ても萌えられるキャラがいないとヒットしないのは間違いないだろう。ちなみにOPの作曲家・田中秀和は強制わいせつで有罪になった。ハナヤマタのOPといい、神前暁の弟子として優れたアニソンを作っていただけに衝撃は大きかった。これはちなみにである。

WORKING!!』は2期までしか見ておらず、というのも2015年にはアニメから離れてしまっていたからで、この間ようやく3期を見たのだった。

山田が一番可愛いということしか覚えていなかったが、3期はなんと山田の物語が入っている。そしてそれがこの作品に似合わず感動的なのである。

そもそも山田は家出少女であり、ファミレスの屋根裏に住むヤバい子であり、山田も偽名というヤバい子なのだが3期ではその家出の謎が明かされる。山田の家出は無口で恐い母親から勉強をしろと圧力をかけられ逃避した結果なのだった。このエピソードは子供の読者・視聴者には共感しやすいのではないか。ファミレスという学生・生徒たちの入りやすいバイト先を舞台とし、そこでの恋愛は自分にも起こりうるかもしれないと淡い夢を見させてくれるのが本作の魅力でもあるのだから。

山田は今だとトー横キッズのような不良少女としてデザインされると思うが、この当時は健全が主流だったので山田も親の問題を抱えながら却って明るく振舞う健気な少女である。山田の機能は主人公たち高校生組よりも下の子供たちの共感先であると同時に、高校生組が一向に受験に触れないので彼女が学業競争を生きる子供たち(高校生を含む)の意識を反映している側面もある。

佐藤と八千代の恋愛は大学生かそれ以上の年齢層に受けるようになっているし、この作品が年齢的にも包括的な、まさにファミレス的な大衆性、総合性を有していることがわかる。このハイブリッド感は公務員では出せないだろう。『コンビニ人間』と同じくファミレスというのはあらゆる人々の共感を呼べるし、コンビニよりも家的な暖かい雰囲気も醸し出せる最適な舞台設定だった。学園ラブコメにおける部活動と同じで、それは共同体の理想なのだろう。というより共同体を切実に求める運動の帰結なのだ。

男性作者は既存の記号で遊びがちだが、女性作者は私がその文脈を知らないだけかもしれないが、現実の環境を反映するのが巧みな印象がある。『先輩はおとこのこ』や『スキップとローファー』、『その着せ替え人形は恋をする』『僕の心のヤバいやつ』など、現代の環境を意識しつつ等身大の人間やその心情を描くのが上手い作品が多い。『WORKING!!』も主人公は幼女を可愛いと思うオタクでその性癖を自分で咀嚼できずにいるが、そんな悩みを男性オタクが自分で思考し告白したことがあっただろうか。『先輩はおとこのこ』の主人公は女装癖があり可愛いものが好きだが、これは『WORKING!!』の主人公も同じである。女性向け作品にこのタイプの男性キャラがいて、一種の記号なのだと指摘できるかもしれないが、その葛藤も含めて記号だとしてもそれを男性オタクが我がごととして吸収し、描写したことがあっただろうか。そうした点で本作は、キャラ=記号の交錯であると同時にそれぞれが自分とは何かを考える現実的主体の物語でもある。

もちろん登場人物に変人が多く、各々葛藤と向き合っていくという作りはエロゲ的でもあり、男性オタク作品の文脈と絶縁しているわけではない。だからこそ本作は男性オタクにも支持されたのである。主人公を男性にしているのもエロゲと少女漫画(か?)の接続の意図を感じる(というより掲載誌が青年誌なのでそうせざるを得なかったのだろう。男性向けに擬態したのだ)。ついでに言うと『マケイン』はこの三人称ラブコメラノベに輸入してやっている(マケインもアニメ化はA-1である)。『WORKING!!』の優れていた点は男女どちらが見ても萌え/キュンできるバリアフリー性だが、一対一ラブコメカップリングが単一で一人称的ではあるもののその点は同じであり先駆的だったように思われる。

エロゲを含め、オタクにとっての恋愛とは自分の欲望に気づいたり自分の限界に気づいたり自我の芽生えと成長の表現であって、父性との向き合いなのだと思う。それを繊細に描ける筆力が求められるわけである。とはいえそんな文芸性は一対一ラブコメには基本見られないし、百合作品に拠点を移した観があるが。

散らかった文章になったが、気になる部分も本作にはある。

男性側は基本的に有能な人間が多く、王子様的表現が見られる。山田の兄だけは遊び人だが、彼は母のことをどう思っているか曖昧だし、いまいち人柄がわからない。唯一の非-王子様キャラがキャラ立ちしていないので、全体的に見るとそうした偏りが指摘されうる。また、佐藤がいきなり八千代を抱擁する場面もちょっとヒヤッとしてしまう。『山田くんとlv999の恋をする』でも、いきなり山田が「自分の恋心、バレちゃったか(てへぺろ)」とイケメン仕草をして驚いたことがあったが、それは多分にフィクショナル・記号的である。それで女性読者がキュンとできてしまうので別にいいといえばいいのだが、その人物の起こしそうな行動から逸脱しているように見えて気になるのだ。予想の裏切りが定型に陥るのは残念ではないか。

くどくど述べたが、『WORKING!!』はラブコメアニメ界の金字塔であることは誰もが認めるだろう。3クールもあるが、胸キュン必至、アニメの教養としてもそうだがおすすめ作品である。

『日常』について

あにこれ掲示板の方でも感想を書いたが、京アニの『日常』を今更見返してみた。

というのも寝る前に動画でも流さないと寝れない程度にはスマホ依存なので、頭空っぽで流せるものでもないかと思い『日常』を選んだのだ。

2011年放送のアニメでリアルタイムで見ていた記憶がある。ヒャダインのOPに一瞬ハマったが、それは私が幼く、ニコニコで流行っているものはすなわち自分の中で流行っているもので、それぐらい同一化していたためであった。今聞くとそれなりにいい曲だが、ハマるほどではない。しかのこのOPよりは独創性があって面白い曲だが、メロディの強さは同じくヒャダイン作曲の『バカテス』一期OPの方が秀でている。

今見返すと、この作品がロボットのなのを主人公に組み立てられていることがわかる。

とはいえ一期は登下校するゆっこたちを目にして高校生活に憧れを抱き、一期最終話ではかせから登校を許されるという大まかな軸があるに過ぎないが、二期からはなのがゆっこたちと友達になり、ロボットであるというコンプレックスをゆっこの言葉で見つめなおすという明確な軸が生まれている。アニメオリジナルなのかどうかはわからないが、ただのギャグの連続に終わらないようアニメの範囲で軸になるストーリーを構成していることは確かだ。

しかしなのの成長が線として描き出されているかというとかなり疑問が残る。なのの悩みは人と違いロボットであることに依っているが、それはかなり特殊な悩みである。広くとって自分の身体に制約を感じるという悩みでいえば、作中ではほかにリーゼント男くらいしかいない。その点では象徴性に欠ける(みおちゃんは運動神経が悪いがそれにずっと悩んでいるわけでもない)。それになのの場合、はかせに改造され体から食べ物が出てきたりすることがギャグになっている。そうなるとあまりなののコンプレックスを深刻化するとはかせの印象が悪くなる。ということもあって、あまり深く陰の部分を出せなかったために最終回に繋げるための線が薄くなったのだろう。しかし、なのの友達ができるかどうかの不安感や、ゆっこたちとの掛け合いがもっと描けていたなら、成長にも説得力が出たはずである。ロボットであることがコンプレックスな自分、そのありのままの自分を奥底から許容できるゆとりを、ゆっこたちとのつながりのなかで獲得できたという流れをもう少し主観的に描かなければならなかった。

背中のねじに表されるような容姿の問題ではなく、ロボットであるというどうしようもない事実について悩む姿も必要だっただろう。みおちゃんがなのがロボットだということに気づいてなさそうなのも、その筋書きにしたいのなら具合が悪い。

ちなみにこれを違和感なく運んだのがキルミーベイベーである。キルミーは最終話の前からソーニャちゃんを心配するやすなの心情の微妙な変化を仕込んでいる。もちろんその解釈は原作の作風から外れた改変で賛否はある。『日常』はもう少し大胆に変えるか、そのような軸をつくらないかのどちらかでよかったのだろう。

話は変わるが、キャラデザや作画が今でも全く古びていないのは凄い。むしろユーフォニアムの方がすぐに古臭く感じられるのではないか。これは結局基本的な作画の統一と、あらゐけいいちの絵をアニメで再現できる力量に支えられていると思う。この絵が海外のどういう画風に似ているか等はわからない。今は角川は動画工房でアニメビジネスをやっているが、昔は京アニだったわけである。作画の強度は実際凄い。

 

一番秀逸で面白いエピソードは24話の笹原とみおの自販機シーンである。笹原自体がいいキャラなのだが、みおが落とした硬貨を自己本位で貰ったことにした結果自販機に罰を食らうという因果応報としての組み立てもよくできているし、間の取り方もよく、劇画的な顔の演出も程よく過剰でよい。

『終末トレインどこへいく?』について

水島努監督のオリジナルアニメ『終末トレインどこへいく?』(以下、終トレ)は、2024年春アニメのなかでは注目された方だが、放送終了後にネット上で感想を目にする機会はなかった。

主人公の声優はリコリコの千束を演じた安済知佳で、リアルな抑揚は健在だったが、主人公のどぎつい性格を上手く表現できていたと思う。

このアニメは監督のツイートから察するに、納期にギリギリ間に合わせて作っていたらしく、一週間だけ飛んだことがあったが何とか完走した。そうしたライブ感も印象的である。

ジャンルとしてはポスト・アポカリプスもので、電車で終末後の都市を巡る点で『ケムリクサ』に近い。しかし『ケムリクサ』と違ってSF的な構造主義ではない。世界の機構がどうだとかは関心にない。ポスト・アポカリプスものにヒューマニズムを賦活する作品である。それも人類という大きな対象ではなく、友達という小さな対象を主題としている。その意味では、ポスト・セカイ系破局を迎えた後のセカイからスタートしているので)と呼ぶ方がいいのかもしれない。主人公とヒロインとの関係がこの作品の核になっているし、生贄となったヒロインを救うという筋書きも『天気の子』に似ている。一対一の関係から人間社会への期待を帰納する逆セカイ系的作品。

電車で旅に出る仲間たちもそれぞれの自我が強く、協調性がない。しかし作品が彼らに向けるまなざしはそれでいいのだと首肯しているように見える。それぞれが相手の自律を尊重し、異なる性格や意見を包摂する、多様性を持った集団を提示している。本作は人類への危機感というSF的スケールではなく、社会への危機感が動機になっているように思われる。ここで描かれている関係性は日本的な(きらら的な)同調性ではなく西欧的な個人性に根差しており、それを理想とするところに現状の日本社会に対する批判意識が看取される。しかしそのせいか多少理念が先行しており、感情より理性が重視され、最終回におけるカタルシスも効果としては減じている。『天気の子』では愛が手段になるが、本作ではロゴスが手段になり、人の心理に寄り添えているのか(そこまで降りられているのか)疑問符がつく。もちろんそうしたカタルシスに見られる日本的全体主義を批判する意図があるのかもしれない。

本作は友達との不和から人が信用できなくなり、社会への信頼をなくした個人を、対話によって救おうとする物語である。このリベラルな価値観はガルパンの反省から来ていると思うのだが、ガルパン同様欠点として、水島監督の描く人間はエリートである。人は自分の頭で考え、正しい行動をとることができるという理性主義的人間観があり、終トレの最終回におけるヒロインの改心もその人間観に支えられている。その点ではなろう系に近い。つまり自分が間違っているということは自分の頭で考えればわかることで、感情が邪魔をしているだけなのだという思想がある。最終回の対話も説得的で、何ならソクラテスの問答法に近い。相手に気づかせるという解決法である。

この作品を修正するポイントがあるとすれば、上で述べた人間観で主人公を描かないことではないだろうか。つまり主人公は物分かりが悪く、ヒロインに対して酷いことを言ったという自覚がそもそもなく、両者の不和が思想の違いによるものだとはっきりさせるのである。そうすれば単一の結果に導く理性主義がなくなるし、対話に意味をもたらすことができる。自己の反省ではなく、他者と話し合うことで気づけることがある。そもそもこの作品が扱っている不和とはそうした思想的立場の違いも関係するはずなのである。理性によって常識的な道徳観にアクセスすることができ、それによって解決することができるという顛末ではなく、価値観の対立を焦点とすることで、それまで描いてきた様々な地区の価値観の紹介にも意味を持たすことができるし、それが最後の対話の示唆になる。そしてそれとは別に自分にとってかけがえのない存在だということをヒロインに訴えかけるのである。こうすると社会批判と一対一の物語が総合できるのではないだろうか。

『16bitセンセーション』もそうだが、オリジナルアニメは散らかりがちである。私のブログもまたそうである。

またなろう系の話をしている

ダンジョン飯』の主人公はASD的特性が見受けられると前回述べたが(それは当作品に現代的要素が備わっているという話なのだが)、見方を変えればなろう系の非人道的(倫理観の欠如した)な主人公像を一応付与するためにそうしているのかもしれない。なろう系との連続性を持たせているともいえるが、そこには作者の批評が見られる。

しかし私は知識不足なのだが、ダンジョンものと呼ばれるジャンルでは死に戻りが当たり前で、その独特の倫理観が読者にとって障壁になるので、敢えてASD的とも思われる強烈な個性を主人公に持たせて読者を納得させようとしているのかもしれないしそこはわからない。理由はともあれ、結果的に『ダンジョン飯』は、周りに常識人を配置し、なろう系的主人公像を相対化することに成功している。漫画という手法も手伝っているが、書き手と主人公には隔たりがあり、妹の死をなんとも思わず共感力に乏しい主人公を「中立的に」描くことができている。正義という判断を下さないのである。

『葬送のフリーレン』のフリーレンもなろう系的人格を当初持っていたが、それを反省する物語である。つまり自分にとっての他者を知ろうとする物語であり、有能か無能かで人を裁き取捨していく物語ではない。

なろう系で最近特に興味深く感じた作品は『佐々木とピーちゃん』である。この作品の主人公はまさになろう系の標準であり読者にとって理想的な人物なのである。主人公の佐々木は商社勤めのサラリーマンだが、そこで鍛えられた交渉術で異世界人に現実の商品を売りつけ富を築いていく。佐々木の思考は論理的で明晰、ピーちゃんというインコから授かったチート魔法も保持している。異世界に現実の物資を持ち込むことの環境変化等の倫理的是非は考慮に入れないし、他人の知的財産で稼ぐ後ろめたさも感じていない。しかし彼はどんな事態においても「スマートに」立ち回り問題を解決していく。彼の行動が道徳的かどうかは重要でなく、資本主義に適応し力を持つことが優先なのである。佐々木は資本も獲得し、女も獲得し、権力も獲得する主人公であり、それがなろう系において理想的とされる主人公なのだ。

更に佐々木は異世界の貴族の忠誠ぶりに感動を覚える。有能な人間は評価されるべきであり、人はそうした人間を尊重し敬うべきなのだという絶対的な価値観がある。

能力で人を従えていくことが美徳になるジャンル。権力志向というか、人が目的でなく手段になっているというか、対話的理性が不在で道具的理性しかないというか、色々問題含みなのである。

石丸現象?やひろゆきの論破と通底するものがあるのかもしれないが、こうしたロールモデルの支持は、それがASD的特性と関連付けられる可能性を考えると私自身は批判に躊躇してしまう。それゆえ『ダンジョン飯』のライオスに批評性を感じてしまうのである。

RPG的アニメ?

昔のRPGに見られるような未知の地へ少年が進んでいく冒険譚は最近のアニメには存在しない。あの『葬送のフリーレン』ですら巡回済みマップをもう一度歩くという、どちらかといえばポスト・アポカリプスものの形式に近い作品である。フリーレンはポスト・アポカリプスの持つ悲観的な現代認識と異なり、人間の善性に期待する超越的な視点に立っていると思う。巡回済みマップをもう一度歩くともいえるし、もっと的確にいうと周回プレイでやり込んでいるともいえるので、その点ではRPG的なのだが純粋な冒険譚ではない。(逆になぜ周回プレイをしているのかを考えると面白いかもしれない。ソシャゲや対戦ゲームが覇権を握る現代に対して、買い切りゲームをやり込むことは主体性や他者への想像力を回復する手段であり現代の処方箋なのだと表明しているのかもしれない)

ダンジョン飯』を見てみると、主人公はモンスターの知識が豊富で、未知のものに出会っていくというエキゾチシズムがない。ダンジョンの攻略を死に戻りしながら繰り返すという設定もメタRPG的である。アスペルガーの主人公像や多民族・多文化理解も現代的である。少年が成長していく物語性や、ステージが変わって風景・美術に感動したり新しいモンスターのレベルに不安を抱いたり、そういった純粋なRPG的体験を取り入れた作品は昨今ない。没入感と言い換えてもいい。

なろう系において町でお店を開いたりスローライフを送ったりする作品があるが、それらは他者をNPC化して自己の承認欲求の手段にしており、先ほど述べたRPGの没入感を否定するものであり、更にはゲームのコミュニケーション性(送り手と受け手の交流)への侮蔑ですらありうる。フリーレンにおける送り手の意図を更に深く読み解こうとする態度とは正反対なのがなろう系(物としてのゲーム)である。

なろう系というと、昔はMUGENというフリー格闘ゲームがあって、キャラやステージをつくったりそれを改造して「最強」キャラを作るのが主要な楽しみ方であった。商業ゲームでさえチートで遊んでいた世代もある。そうした遵法精神の欠如や力という規準がなろう系を形成するものである。

神秘性を備えたRPG的作品の台頭を期待したい。映画の『DUNE』を見たときもそう思ったものである。