百合作品は次第に性的過激さを増しているように見える。いや、『桜Trick』はキスしまくっているではないかという反論はおいておこう。『転生王女と天才令嬢の魔法革命』(略して転天)のレズベッドシーンはTwitterで延々と海外の人たちに擦られているし、わたなれはスパダリに初っ端からレイプされる。見世物性が増しているともいえるし、LGBTQの理解によって直接的にレズビアンを設定に取り入れる作品が増えている(『超かぐや姫!』など)ともいえる。この二つは両立できそうにないが、どうも両立しているように見えるのである。世俗化と世俗化の手前の社会的了解の綱引き、一足飛びにエロティシズムに行くか、エロティシズムの既存の表象に対し一旦判断中止して性的指向の一つとして穏当に組み込むか。『わたなれ』とはその駆け引きと葛藤の表現とも捉えられる。この作品は青年漫画的な性表現に包んで同性愛を提示しつつ、性的指向としての同性愛の理解を試みている。そして更に進んで同性愛に限らず性愛とは何なのかというテーマに取り組んでいる。れな子の戸惑いとは、性愛とは何なのか、その規範をどう自己と関係づけていくのかの苦悶であり(それは性自認や性的指向を対象にしているのではなく、社会と自己の関係、自己を成り立たせる条件(れな子の場合学校制度が個人に課す規範も性愛と同次元の条件)への意識、その葛藤)、見世物的見かけとは裏腹にかなり深刻な性の問い直しの作業なのである。
オタクにおけるレズ表象がエロスの前景化に乗るか、エロスの前景化の背景に焦点を当てる手がかりになるかはわからない。『きみ死ぬ』は同性愛を戦争という極限状況が生む性愛の形式と規定しているように見える危険な作品である。それは同性愛を現今の社会通念上で不自然なく導入するために戦争という異端を必要としているように見える。しかし当然ながらこの作品は同性愛は異端だとか禁止故に燃え上がるとかという古風な理論を訴えたいのではなく(そうであるなら女性同士のキスにもっと抵抗を感じていいし、性自認が男の女性を出す必要もないのである)、あくまで自然に発生する他者への愛着の一形態として描き出したいのである。そういうとわたなれと同じく同性愛をエロスではなくもっと広い関係として描いているといえそうだが、残念ながらわたなれほどは深度がない。というのは他者への愛、恋愛欲求が前提として存在しており、その方向づけが疑われることはないからである。
ただ『きみ死ぬ』には興味深い点があり、それはゼロ年代のセカイ系を現在の百合作品の体系に組み込もうとする点である。ミミはKey的な電波系少女であり、セカイ系の快楽は現在でも通用するのかという実験でもある。ミミが電波系だとすると、その恋愛はロリコンのタブーと接触する。実際ミミはロリなのである。そして主人公は父権喪失の男性主人公と同じく非力である。方向性としては、新海作品と同じく力の獲得に向かうポストセカイ系の構図が看取される。となるとこの作品はアメリカに自衛隊を徴発させられる日本の姿をハリー・ポッター風の魔法学校を外形にして描き出していることになる。そして保守独立を促しているわけだ。といってみたところでそれ以上指摘できないのだが、セカイ系が現在の我々に何を訴えうるのかはよく考えなければならない。ポストアポカリプスという近代の崩壊後かポストセカイ系の近代の延長か、覇権主義の強まる現在において後者の方がリアリティを持ちうるという考えもあるが、そうした反映以上の効果を作品が具備するかどうかが重要なのだろう。
そして私はこの作品から何か新しい感覚を掴むことはできなかった。『わた推し』と同じく既存のジャンル内で異性愛を同性愛に置き換える以上の積極的意味付け、相互作用を感じなかった。けれども常に思うのだが創作とは難しく、現在『無職転生』が批判されていることから判るように、個人だけで作るよりは編集を介したほうがマシになるとはいえ、マシになったところで限界内での調整に過ぎなかったりするわけである。となると、新海のようにセカイ系を調理し直したところでスぺクタル以上のものが出なかったりする。なので私が今注目しているのは恋愛というテーマの焦点化であり、それが百合作品によって探求され、他者との関係の複層性や身体パフォーマンスの可能性や欲望の多様性といった個人性の問題が展開されていくことに期待しているわけである。それが学園ラブコメラノベのようにポストセカイ系としての父権復権(ダジャレ?)では権威主義的でつまらないわけで、百合ラノベとして『わたなれ』が出てきたことに希望を見出しているのである。

