コッポラ『地獄の黙示録』を観て思うことなど

 

私が“コッポラ”の名を聞いたのはいつだったか覚えていないが、はっきりと彼の映像を見たのは大学の講義の時だった。

 

映画に関する講義で、特段知識もないので映画批評の言語でも学ぼうかと思い受講したのだが、広い講義室で真面目に話を聞いているのは数人しかいなかった。あとの数十人は寝ているか、LINEをつついている“学習アレルギー”の人間たちだ。状況はまさに『アポカリプスなう』である(※『Apocalypse Now』は『地獄の黙示録』の原題。ここでは「終末的だ」ぐらいの意味合いで使われており、とーとろじい氏によるギャグである)

 

講義では『地獄の黙示録』の序盤、米兵がヘリからワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」を鳴らして「ベトコンの基地」を襲撃する、“かの有名な”場面を取り上げていた。

(もちろんその時の私は、この場面が“かの有名”であることさえ知らなかったのだが)

 

このシーンでは、勇壮な「ワルキューレの騎行」がヘリ内に鳴り響く一方、標的であるところの村のカットに移ると、突然静寂が映像を支配する。そして次第にかの有名な「ワルキューレの騎行」=米兵のしるしが大きくなって聞こえてくる。この迫りくる恐怖の演出は、音と映像の現実的合成によって生まれている。音源元であるヘリでは音が大きく、その他のヘリでは(音源から離れているため)音は少し小さく聞こえ、襲撃前の村では物理的に聞こえるはずがないので無音であり、しかし襲撃後はかの音楽が村の混乱とともに空を舞っている。いわば、音をちゃんとその現場で鳴っている音として演出しているわけだ(他の方法だと例えば、どこから聞こえているのか不明な挿入歌など、音源元を考慮しない表現がある。こちらの方が一般的だろう。そもそもBGMは映像の外からつけるものであって、映像の中で、実際にその場に流れているものとして想定されることはほとんどない)

講義では上記のような、映画における音と映像の組み合わせが語られていた。大雑把に言えば美学・芸術論のお話である。

 

というわけで、コッポラといえば講義でチラッと見た『地獄の黙示録』の監督で、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞し、他には『ゴッドファーザー』なんかがある、作家性の強い著名な監督という印象が私の中にあった。

有名な作品を見ていないのは無知であり、無知は最も恐ろしい言葉であり、私は生来の“無知アレルギー”なので、ここは一回観ておこうか、となったわけだ。

 

さて。

 

なんて長い映画だ!

 

……と観終わったあと思ったのだが、私が観たのは完全版であった!

これは2001年に出されたもので、未公開シーンを加えたために3時間22分の長尺になっているものなのだ(ちなみに「ワルキューレの騎行」が使われているワーグナーの楽劇『ワルキューレ』も上演時間3時間40分だという。奇妙なシンクロ)

公開当時のバージョン(オリジナル版)は、カーツの王国を爆破するラストになっており(これでは信徒であるベトナム原住民を殺戮したと解釈されかねない)、コッポラの平和的意図が誤解されてしまったため、完全版では爆破シーンをなくしている。なので完全版の方が作者の思惑に忠実で、全体を汲み取れる作りになっていると言えそうだ。

 

私は観賞後に、「この映画の宗教的で神話的なラストは、一体何を意味するのか」と、戸惑いを覚えた。それはカーツという存在の、意味についての問いでもあった。おそらく「この映画は駄作だ」と評する多くの人は、ラストを解することのできなかった人間に違いない。ここに引っかかりを覚えるのは寧ろ自然でさえある。

 

この点について、物語のテクストを忠実に読み込もうとするブログ記事を見つけた。

Yoshio Sasaki氏の『人生論的映画評論』(※リンクは最下部に掲載)というブログである。(注1)

アメリカの「マニフェスト・デスティニー」の標語に代表される覇権主義的国土文化を指摘し、それがベトナムという妖怪により「アメリカン・ニューシネマ」の台頭を促し、本作をその最終到達点と位置付けている、尤もで丁寧な批評である。

氏によれば、カーツという存在はアメリカのベトナム戦争における大義の欺瞞さ、国家が戦争をするために根拠とする当の物語が希薄かつ脆弱であることに気づき、米国を見捨て、自身による物語の補完を行なった。その結果があの王国なのだという。

 

これは映画を忠実に追っていけば当然的に至るところの解釈である。主人公のウィラードが読む報告書とそれを受けての感情の変化、完全版で追加されたフランス人の会話などから見えてくるのは、ベトナム戦争の根拠のなさ、大義の欺瞞さ(それはひいてはアメリカの欺瞞さなのだ)への批判である。そしてカーツは、戦争への強い意志と物語を持ったベトナム人に「ダイヤモンドの銃弾を受けるごとく」感銘を受け、独断で、戦争に勝つための正しい判断(二重スパイの暗殺)を行なった。これは米軍に喝を入れる行為であったが、軍部に糾弾され、カーツは米国を見限るのである。

 

主人公・ウィラードもまた、旅の途上において米軍の愚かさを目撃し、カーツへ同調していく。

 

「これが我々のやり方だった。“機銃を浴びせて手当てする”ーー欺瞞だ。見れば見るほど、欺瞞に胸がムカついた」

 

「機銃を浴びせて手当てする」とは、共産主義からベトナムを守るため、という美名を使って、わざわざ軍事介入をするアメリカと重なっている。

 

物語の大枠としてのメッセージは、なるほどその通りであろう。しかしそんな批判意識を強烈に持つ存在であるはずのカーツは、なぜあんなにも歪な独裁集団を作ってしまったのか。カーツをアメリカ社会へのカウンターとして全面的に肯定するプロットでも良かったはずだ。

 

ここにはやはり、戦争の方法しか知らない軍人・カーツの憐れさが表れていると言うべきか。彼は実際、ベトナム人の合理的で冷徹な殺人手段や判断力に感動しているのであり、軍人としてのプロフェッショナル、徹底性を求めるその生き方が、あの王国ーー疑わしいものらを処するあの独裁を生んでしまったのか。いわゆる、戦争の、人間をして非人間ならしめる悲惨さを、彼の王国は示しているのか。

自分の居場所が戦場にしかない者の悲哀。戦争によって非人間化されてしまった彼の精神の実体的表示。そう捉えることは妥当だろう。なにせ主人公もまた、冒頭やフランス人の未亡人との会話からわかる通り、ジャングルを求める戦争の精神的奴隷、閉塞状況に陥っているわけだ。

 

だが王国にはもっと別の意味内容が込められているようにも思われる。

 

古賀・山本(2008)は、原作に当たるコンラッドの小説『闇の奥』と結びつけて論じている。(注2)

『闇の奥』は、ベルギー国王レオポルド2世による植民地・コンゴへの搾取政策を批判する作品だ。『地獄の黙示録』は「現代の(ナウな)」ベトナム戦争へ舞台を移し、この原作に依拠しつつ翻案している。

船乗りの主人公・マーロウはコンゴ川を遡行し、音信不通となった象牙採集人・クルツという人物の探索に向かう。貿易会社は原住民を酷使して象牙を採取し、利益を得る植民地支配の悪しき担い手である。マーロウは川を遡行する途上で、文明開化の美名のもと、西欧により搾取される未開社会・コンゴの実情に触れ、怒りを覚える。クルツは大量の象牙を採取するエリート的人物だったが、ヨーロッパはアフリカに対し積極的に文明化を進めるべきだという啓蒙主義を称揚する人物でもあった(野蛮人を皆殺しにせよとまで主張していた。この文言は『地獄の黙示録』のラストの赤字の走り書きと関連しているようだ)。失踪したクルツは、川上の奥地で原住民を信者として従え、彼らを使って近隣の部族から象牙を略奪したり、反逆者に対しては首を切って竿に刺すなど残酷な処刑をする独裁者になっていた。マーロウが出会ったクルツは病身であり、船で連れ出すものの、「The horror! The horror!」と叫んで死ぬ(これも黙示録のカーツの最後のセリフで使われる)。この『闇の奥』の大筋を『地獄の黙示録』は引き継いでいる。ちなみに操舵手が槍に刺されて死ぬのも同じである。

となると、カーツが王国を築き上げるのも、原作の『闇の奥』に準拠して設定されたと考えられる。原作からの要請であるとすれば、王国の不自然さ、わざわざカーツが王国を作るという展開も納得できる。おそらく映画のラストに違和感を覚えた人も、原作がこうだから、と説明されることで了解できるかもしれない(そもそも槍で胸を突かれる場面も映画に必要であったかどうか不明であるし、そこに違和感を覚えた人も原作の存在とその物語を知ることで納得できるだろう)

 

コッポラによる『闇の奥』の読み直し、「現代の」『闇の奥』としてのベトナム戦争、現代版『闇の奥』としての『地獄の黙示録』、という風に考えたとき、ラストの違和感や疑念をある程度整理することができるのではないか。

 

カーツは彼の顔がなかなか影から出てこないことからもわかるように、ミステリアスでどこか「かっこいい」存在として演出されている側面がある。しかしこの演出は、少しミスリードではないだろうか(オリジナル版では更にそうしたキャラクターが強調されていたようだ)

というのもカーツの意味内容は、

 

(1)ベトナム戦争に対する理念=反共の尤もらしい理念を掲げながら、アメリカは実際には植民地主義的意識に基づくベトナム民族への支配と殺戮を企図し、実行しているという欺瞞の告発、その批判の代弁者としてのカーツ

 

(2)他方で、自分自身も理性を失って、ベトナム民族を支配し、利用し、搾取する、アメリカの植民地主義的意識(ベトナム人に対する優位意識)に従い、アメリカの闇の姿を体現してしまう存在。アメリカの表象としてのカーツ

 

が考えられ、カーツをかっこよく描いてしまうと、(2)の役割(自分自身も愚かなアメリカであること)がわかりづらくなってしまうのだ。

 

それに加えて、完全版ではウィラードに対し、『タイム』を読み上げ、ジャーナリズム批判まで展開する(注3)

 

こうしたアメリカ批判の代弁者的役割が強調され、ヒロイックな印象を強めてしまうと、ラストの彼の死をどう解釈していいか観客は戸惑ってしまうわけだ。(一部ではカーツをかっこいい指導者として受容する人もいるだろう。しかしそう解釈するとなると、王国の異常さをどう説明していいのかわからなくなるだろう)

カーツと彼の王国は、アメリカの美辞麗句のスローガンを剥ぎ取ったあとに残る、真のアメリカの姿を表象しており、基底にある無反省な覇権主義が現実に形をとったなら、それはカーツの王国のように、他の主導者(国)の台頭を許さない(それはソ連を許さないのと同じだ)自国第一主義、父権主義の独裁的国家となってしまう。そしてそれがアメリカの本質なのだ、とコッポラは暗に示しているわけである。

 

だからラストでは、彼を殺さなければならなかった。それは今までのアメリカを反省することであり、30万人を超える自国の人的損害を発生させ、帰還兵のPTSDやその他精神疾患の問題(これはマーティン・スコセッシタクシードライバー』やスタンリー・キューブリックフルメタルジャケット』の方が主に問題として扱っている)等を遺すことになった負の歴史を見つめ直すことに繋がる。

このラストに関しては『闇の奥』とは差異があるため、まさにコッポラのメッセージが込められた重要な場面というわけだ。

 

その方法が神話的かつ過度に美的で、やや抽象的であったために伝わり切れていないのではないかという疑問は残る。

カーツという記号にどのような意味内容を認めるかによってブレが生じてしまう作りにはなっている。私の観賞後の引っかかりもそこに原因があったわけだ(だがその引っかかりは、『闇の奥』の植民地主義批判の文脈や、テクストを参照すれば上記のように捉えることが可能だと思う)

 

なお、参考書としては“かの有名な”立花隆が『解読『地獄の黙示録』』(文藝春秋, 2004)を出している。

Amazonページ ー 解読『地獄の黙示録』

 

 また、少し付随的な挿入になってしまったが、(注3)に記載した伊藤正範の論文「『タイム』を朗読するカーツ : 『地獄の黙示録』におけるジャーナリズム」(2012)では、コンラッドのジャーナリズム批判をコッポラも別の方法により組み込んでいる、という非常に面白い内容になっているのでお勧めする。

とりわけ、Matthew Ruberyの脱身体化→神秘化、そして再身体化という概念図式は面白い。文字による伝達が、発言者の身体的条件を無化してくれるとともに、神秘化が発生する。その危険性を回避するために、作者を生身の人間として再身体化し、現実性に引き戻す試みが『闇の奥』、そして『地獄の黙示録』において見られるという指摘だ。

確かに、どんなに業績や学歴が良くても、或いはどんなに正当な論理を展開する識者であろうと、それがその人の全体性を意味するわけではない。このことは、TwitterSNSの広がった現在において、重要な指摘を含んでいるかもしれない。

ただ残念なことに、Matthew Ruberyの書籍は翻訳されていない。

 

というわけで、この辺で切り上げるとしよう。

 

 

 

(注1)Yoshio Sasaki. 2008. 「地獄の黙示録('79) フランシス・F・コッポラ」. 『人生論的映画評論』. 2008年11月20日. 最終アクセス 2019年10月2日. 

https://zilge.blogspot.com/2008/11/79f.html

 

(注2)古賀元章・山本一夫. 2008. 「『闇の奥』と『地獄の黙示録』における人間の内面描写」. 『福岡教育大学紀要』57: 33-39.

http://hdl.handle.net/10780/243

 

(注3)伊藤正範. 2012. 「『タイム』を朗読するカーツ : 『地獄の黙示録』におけるジャーナリズム」. 『商学論究』60: 647-665.

http://hdl.handle.net/10236/10424

 

 

【参考文献】

田久保浩. 2019. 「遍路と文学 : 『闇の奥』における旅と物語」. 『キリスト教文学研究』36: 15-25.

https://repo.lib.tokushima-u.ac.jp/113283