2020年秋アニメに一言(7、8話)(12/7)

こんばんは。とーとろじいです。

 

始めます。

 

 

『魔女の旅々』7、8話

7話。前半は壁で隔てられた国同士の競い合いと崩壊による和解。後半はブドウ酒をめぐる村同士の争いと和解。似たような話ですが、特に後半の話はコメディでよかったです。

“イキリ”ナちゃんは誰かに気圧されるぐらいじゃないとバランスが取れません。ブドウ酒のアイドルにスタイルをいじられて必死になるイレイナちゃん。そう。そうでないといけないのです。

コメディに寄りすぎではありますが、ここに来て、ようやくいい回が見れました(逆にいえば、真面目なストーリーになるとボロが出るという)

前半の和解の仕方は、焦点化の対象が「国」から「人付き合い」へと移り、また、その言動が視覚化され、アーカイブされることで国民に個人の反省が生まれた結果、和解に至ります。後半は、身体で対面し、ぶつかり合って(「祭り」により)相手を隣人として認めることができた結果、和解に至ります。どちらの和解の仕方も、Twitterにて争いの絶えないこのご時世にヒントを与えているようです(かなり好意的にこの物語を捉えるなら、そういう風にも考えられる)

8話。古風な洋人形屋が出てきてサイコホラーというと、映画『バニー・レークは行方不明』を思い出します。8話は、人形屋さんが人の髪を勝手に切って非正規品の人形を作り、その収益を慈善事業に寄付したりして、経過のなかで生まれる喜怒哀楽の表情を自分のフェチシズムにしていました、というお話。人形屋さんのキャラが濃くて、笑いどころが多く、ホラームードになってなかったのはよかったです。ここ数話は喜劇っぽい話が続いていいですね。

 

『戦翼のシグルドリーヴァ』7、8話

7話のあらすじ。

“富士プライマリー・ピラーの内部に突入したクラウ、宮古、アズズ、園香らを待ち構えていたのは、謎の巨人と、かつて撃墜された戦乙女たちの黒い英霊機だった。” https://sigururi.com/story/?id=ep7より

ということですが、ネタバレをすると、北欧神話のトールが富士山からハンマーを振り下ろして人間側を壊滅させ、そのあと撤退できずにいたワルキューレを助けに「姉御」が出てって死んでしまいましたというお話。

姉御と園香ちゃんの関係がここ数話で進んでいましたが、それなら姉御の死の場面はもっとちゃんと描くべきでしょう。出陣して、次のカットでヒロインたちが戦死を知らされるというのは、いくらなんでも省略しすぎです。そもそも姉御と園香ちゃんの関係をそこまで掘り下げる尺的余裕があったのでしょうか。いや、ない(繰り返しですが、ギャグ回いらなかったのでは?)

全体的にキャラの魅力が感じられないのも問題です(1話の感想で出しましたが、『リリスパ』の波動を感じます)。

姉御のキャラを引き出せないまま感動的な死、では、感動的にはなりません。魅力ある「キャラ」が死ぬということが前提でしょう(Key・だーまえの上手さを見習わなくては)

話は変わりますが、ナナヲアカリがOPを担当するとアレになるというジンクスが始まってるのでは(失礼)

 

池袋ウエストゲートパーク』7、8話

6、7話は内輪問題。

8話。貧困のシングルマザーが男に騙されて(恐喝されて)風俗に堕ちそうになるのを助けるお話。外国人実習生の回よりもいい、これまでで一番いい回でした。

シングルマザーに対し、自分の生活に余裕が出るまで子供を預けるという手段があるのだと説明する主人公の母。自治体やNPOが行なっている支援を知らずに、子供への暴力や自殺に陥る人もいると思います。情報の周知は大事です。非正規労働者における女性の割合は男性の倍多いのですが、今はコロナで更に大変なことになっているようです(昨日、クロ現でパパ活をする女性が増えているという特集をしていました。斡旋している男性は月100万の稼ぎを得ているということで、まさにこの話に出てきた詐欺師にそっくりです)。Twitterでは『池袋ウエストゲートパーク』の世界より喧嘩が多いですが、喧嘩よりも、自治体の支援や国の給付金、相談窓口の紹介を行い、社会全体で情報を共有する方が賢明でしょう。

しかし、こういう社会派作品を見ると、アニメが浸透してきている現代において、アニメの社会的責任というものを意識せざるを得ません。

 

『アサルトリリィ』7、8話

7話でヒュージの死骸から出てきた女の子=ユリちゃんが、8話で民間企業によってヒュージから作られた人造リリィだと明かされます。その企業が、楓ちゃんの親の会社ということで、どうなるんだろーというところです。

『とある』にも似た自治権のある学園で、『宝石の国』のように男性の長のもと、美少女たちが未知の敵と戦い、セカイを守る。『まどマギ』のまどかとほむらのように、リリとユユによるセカイ系と考えてもいいかもしれませんが、『シグルリ』と同じように「美少女だけが出て」「男性的な」ロボットや武器を使いセカイを守るこの手の作品群を何と名付ければいいのかわかりません。セカイ系が百合化しただけと考えてもいいかもしれません。

アサルトリリィの場合、気になるのは登場人物の多さです。ソシャゲ化もする予定の本作。ソシャゲはガチャ商法なので、キャラは基本的に多いと思います。アサルトリリィのキャラの多さはこのあたりの事情も関係しているでしょう。

『艦これ』がそうですが、百合の世界観とセカイ系の流れを組む男性主人公との衝突があって、アサルトリリィではリリが男性主人公の特質(モテる)を引き継いで、百合化に成功しています(艦これにおける司令官は、本作では学長という形で後方に退きます。ちなみに好意を向けられる対象にはなりません)

本作は、人類の外に敵がいるから、国同士で戦わなくなったという設定で、中国人のキャラも仲間にいます。結構ポジティブな設定です。『シグルリ』もそうですね。平和を志向しているのか、それとも現実の政治を考えたくないのか。幸せな家族のような非政治的な「小集団」がセカイを担います。かつてのセカイ系にあった「青年」の自意識はどこへやら。独我的主人公は消失したようにさえ見えます。

 

『おちこぼれフルーツタルト』7、8話

7話は勝負下着にレコーディング、8話はカレー。

このエロ全開、下ネタオンリーといわんばかりの内容は、アイドル業の実態というものを暴き出してるのだと考えれば、攻めた作品なのかもしれない(?)。

アイドルものへのカウンターである(??)

アニメイトタイムズに監督のインタビューが載っていました。

https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1605057407

“川口:『きらら』系の作品はギャグでもないし、エロでもないし、『きらら』という独特のジャンルじゃないかなと思っています。原作の(浜弓場)双先生とお話しした時も最初は『きらら』っぽく描いていたとおっしゃっていて。等身も低めだったけど、今は自分が描きやすいように等身も上がったそうです(笑)。

このアニメでも『きらら』らしく描いてもらえたらと言われたし、僕もそう思っていたので、僕がイメージする『きらら』作品として作っています。”

 いや、それがわかっていてなぜエロ全開なんだ。

“川口:原作の舞台が東小金井で、feel.の所在地でもあるので「これはやるしかないでしょ!」とスタッフ陣の気合が入っていたことを覚えています(笑)。”
 やっぱりそうなんですね。

 

ご注文はうさぎですか BLOOM』7、8話

7話。赤ずきんの格好をしたシャロが「肉食べたい!」と怒る→(シャロちゃんは)狼の方だった!というツッコミ。ごちうさのギャグセンスは間違いないです。

何気に7話は一番いい回だったと思います。前半の畳みかけるようなギャグ。後半は、ハロウィンでチノちゃんの母(幽霊)にここあが出会う話。幻想的でしみじみとしていいです。キレキレのギャグと淡い切なさはごちうさの本質的な魅力。百合日常もののお手本です。

 

安達としまむら』7、8話

7話はバレンタインに備えてそわそわする安達とクールなしまむらの話。クリスマスは安達視点だったので気づかなかったのですが、しまむら視点の今回は、安達の不審者感と安達との距離感が際立っていました。ニヒリストなしまむらとロマンチストな安達。風俗嬢と童貞の差ともいえます。私が高校生の時は周りにニヒリストが多かった気がします。その感覚で見ると、安達は夢女子過ぎです。

安達がしまむらに承認を求めるのは、母の愛情不足からでしょうか。

 

トニカクカワイイ』7、8話

7話。京都旅行回。パンを食べてたカフェは「進々堂  京大北門店」ですね。森見登美彦原作アニメ『四畳半』『夜は短し〜』でも出てましたが、『トニカクカワイイ』でも出るとは。個人的にこのお店には思い出がありますが嫌な思い出です。やめましょう。ナサがカッコいいセリフを吐いてた場所は鴨川デルタかな? アニメ頻出スポットですね。でもそうなるとナサのいた場所とツカサのいた場所は結構近いことになりますね。同じ時間だったかはわかりませんが。

トニカクカワイイ」はツカサのナサへの想いとナサのツカサへの想い、両方の意味だったとは。もう、尊いじゃん……(感想放棄)

8話は家族との初ご挨拶。東大寺法隆寺平城宮跡。奈良満喫の二人。平城宮跡は最近ぽつぽつ施設が出来てきているようですよ。只今、本作とのコラボ企画もやっています。行こうかな……(感想放棄)

※↓声優のインタビュー記事読んでたら、割とヤバかった。

f:id:tautology-TetsugakuJP:20201201041506j:image

http://tonikawa.com/special/special-3/

 

『まえせつ!』7、8話

7話。大阪なんばの名所が次々と。中国・韓国からの観光客で賑わう黒門市場に、歴史ある丸福珈琲店、たこ焼きのわなか、道頓堀ホテルの謎の像。『トニカクカワイイ』といい、関西に来てくれるのはありがたいですね。たとえ吉本という国家奉仕企業とのコラボだとしても……。

8話。「おいで」という喫茶店は知らなかった。「COOL JAPAN PARK OSAKA」、そういえばそういう施設ちょっと前にできたよなぁと思って調べると、吉本も運営に関わってますね。成程。わなかが2話連続で出てきましたが、たこ焼きの歴史的には「会津屋」が古いのです。

出演した新喜劇の松浦景子さんは有名ですね。さらに、声の演技がうまい。ここに来てようやく「聞ける」声が。

『まえせつ!』は、どの話も真面目。「それでいいのか!」とツッコミさえしたくなります。

 

『くまクマ熊ベアー』7、8話

7話。途中で出会った伯爵から一緒に王都へ行くかと提案されて「メリットがない」と断る主人公。『魔女の旅々』のイレイナちゃんがドラゴン退治を断った時の態度と同じですね。どちらもなろう系だからです(ASD的合理性)。『魔女の旅々』が「なろう系で『キノの旅』ができるか」に挑戦しているとして、この作品は「なろう系で(百合)日常系はできるか」に挑戦しているように見えます。言い換えれば「なろう系主人公は日常系に馴染むのか」です。前回も言いましたがそれは日常系の特徴に準じれば不可能です。

「ダンジョン×百合日常系」では『えんどろ〜』などがあります。ここで、『くまクマ』に「日常系」を見出すのはそもそも的外れなのかもしれないとも思われます。

「なろう系主人公によるソフトなダンジョンもの」というふうに還元して考えてもいいのかもしれません。ソフトというのは男性的ではなく女性的で、平和的、穏和なという意味です。「熊」は動物としては人間に対し凶暴ですが、キャラクターとしてはかわいいアイコンです。その二元性と同じように、なろう系の持つマッチョイズムと日常系の持つ女性性がこの作品の中で並走しています。しかしそれは互いにせめぎ合い衝突しているのです。それが私の繰り返し語るところの問題です。「なろう系×ソフト」の問題です。「なろう系×萌え(?)」でしょうか。いずれにせよ、この点が融和されていないように思います。

「日常系」の観点を手放さずに見ると、この作品の欺瞞が表れます。主人公と同年代のヒロインが存在しないことです。出てくる女性は幼女です。7話では同じ15歳の子が出てきましたが、すぐに剣術により主人公とその子との「力の差」が示され、対等になることはありませんでした。女性をたくさん出して日常系的なソフトさを演出しても、「サバイバル」「バトルロワイヤル」「マッチョイズム」を偽装することはできません。仲良くなれる(そばにいる)のは自分より「弱い」人間だけです。水と油の混じり合わなさを感じます。

2020年秋アニメに一言(5、6話)(11/29)

『魔女の旅々』5、6話

5話。前、前前話とは打って変わり、花澤香菜師匠が出るといきなりかわいい性格になるイレイナちゃん。そして成長を感じるという。常にそうあって欲しいですが……。

6話。ボーイッシュな悪童魔女が再び登場。その時の回ではイレイナちゃんは悪童を許す、優しすぎるキャラになってたのですが、今回も悪童の重い愛を突っぱねる、面白い掛け合いができててまともなキャラになってます。

しかし、嘘をつけない国の王様に対して、あちらが同意してないのにもかかわらず力技で魔法を解いてしまうのは乱暴です。細かいところですが、こういうところに作品の性格が出てしまうものです。

とはいえ、過去の登場人物が出てくると、イレイナちゃんがそれ用のキャラ(自我が抑えられる)になってくれるので、見栄えがよくなります(OPや絵の可憐さと本編がちゃんと噛み合います)

 

池袋ウエストゲートパーク』5話、6話

5話。中国の技能実習生の問題をアニメで見ることになるとは思いませんでした。いい話でしたね。どちらかといえば(というより圧倒的に)オタクは中国「人」差別が激しいので、畑違いの小説(ライトノベルではなく)だからこそこういうストーリーが生まれたのでしょう。

 

『アサルトリリィ』5、6話

前話は雑に見えましたが、5話は日常回で、なおかつユユがリリに誕生日プレゼントを送るそのデレデレぶりが輪をかけて、一番いい回になっていました。闘わないほうが面白いという。

早めにこの二人のデレデレぶりを見せたかったと考えれば、ユユの尚早なキャラ変も納得できます(そうか?)

何気に一番作画がいいのもこのアニメ。シャフトですからね。

6話。ユユはほむら型メンヘラですが、彼女はミスズの「妹」からリリの「姉」に立場を変えてるので、まどマギの円環(繰り返し)とは事情が違ってます。前へ進む、克服の物語です。

何だかんだ、アサルトリリィは今期アニメの中でも上位の水準ですね。

 

『おちこぼれフルーツタルト』5、6話

5話。いきなりトイレシーン。開けっぴろげである。寮生活にプライバシーは存在しないという警告的メッセージ。この手のアニメ(きらら系)でトイレシーンは逆に珍しい。好悪をいえば、私は好きではない。

“浜弓場:今アイドル物は様々な媒体でありますが、「きらら」という主に日常をメインに描く媒体ではあまりありませんでしたし、自分でもそういうのが見たいなぁと思ったので。

スイマセン半分嘘です、企画考えてる時にアイ〇ツとプリ〇ラに嵌ったんです。結果的に思ってたのと全然違う物が出来てしまいましたが!”

https://www.google.co.jp/amp/s/www.animatetimes.com/news/details.php%3fid=1601871237&pagemode=amp より

 

アニメイトのインタビューを読むと、作者がこういう受け答えをしています。アイドルものはきららにはあまりなかったのでという理由ですが、私が今まで述べてきたように、「“大きな”夢に向かって“頑張る”ヒロインたちの物語」がそもそも百合日常ものにとって非正統的な物語のように思います。きららフォワードでは、はるかなレシーブや球詠、ハナヤマタなど私のいう百合日常ものとは違った作品が多いのですが、おちフルはキャラットですのでその点でも違和感があります。百合日常もの、と大きくいってしまうのはミスリードかもしれませんが、百合日常ものの主流はそうあって欲しい(素朴な生の肯定であってほしい)という趣旨です。

おちフルは各ヒロインがそれぞれコンプレックスを抱えてる点(胸の大きさ、太ももの大きさ、体の大きさ、歌が下手、そもそもおちこぼれな点とか)があって、そこはいいのですけど。作品設定そのものの話です。

このインタビューでは東小金井を選んだ理由として、お世辞なのか「feel.」さんが好きだからと語っています。feel.の本社は小金井市なので、feel.がアニメ化したのは偶然ではないかと思いますが(どうだろう)、凄いですね。その連関が分からなかったのは自分の知識不足でした。

 

安達としまむら』5、6話

5話。安達が太ももを手でいじってたり、視線だったり、レイヤーを重ねたり、独白だけに頼らない映像の細やかさが、もはや二人の息遣いそのものになっています。

6話。もう安達の悩みが同性愛当事者のそれで、社会派アニメに見えてきました。安達の前のめりな態度が、可愛らしいのだけど切なくもある。

 

トニカクカワイイ』5、6話

5話。ムカデ人間月ノ美兎さんの名前が出てきてびっくり。

https://natalie.mu/comic/gallery/news/324331/1127293?_gl=1*36pj87*_ga*dk53c2x6SGZLUndYYUh5S3B6bndIQTV0YkdfVExOWmV0dHM3elJ3VDEwNEhIdDEwUVJMYnJmTjJ4R0lpWTQ1SQ..

CMのナレーションもしていました。ガッツリコラボだ。

鬼頭明里さんって、最近よく見ると思ってましたが、今期では『安達としまむら』の安達の声も担当してます。どちらもかわいいキャラ。声的には大人っぽさを感じるのですが。

6話。自分も東京まで深夜バスで行ったことがありますが、眠れなくてつらいものです。新婚旅行なのに新幹線ではなく深夜バスを選ぶところがこの作品のよさです。ただでさえ賢い設定の主人公なので、金銭感覚だけは“普通”でなくてはいけません。貯蓄はあるみたいですが、それは関係なく。

(それにしても、司ちゃん、カワイイ)

 

『まえせつ!』5、6話

“5”話。ゆるキャン“5”話で出た、山梨のほったらかし温泉がアニメ再登場。

今回は一番、漫才アニメっぽかったですね。前半の山梨観光が、後半で漫才のネタに取り入れられるという、前話の失敗からの挽回にもなっていました。R凸のネタは前半の小ネタを活かしててよかったです。日常アニメではその場その場でツッコミが入りますが(日常の一回性)、敢えてツッコミを保留し、締めの漫才で再演して(ネタ化して)ツッコむというこの構成は、漫才アニメならではで面白いですね。

 

『くまクマ熊ベアー』5、6話

5話。補助金が打ち切りになって困っている孤児院を主人公が救う物語。私がオタクに偏見を持っているからか、孤児院の方が悪になるのだろう(例えば被害者面して騙しているとか)と思っていましたが、素直に領主側の責任で終わりました。孤児院を救おうとする、主人公のまっすぐな優しさが出ていて、驚きました。

6話。子供たちが喧嘩してる親にプレゼントを送る話。5、6話とも、ダンジョン感がなく、RPG世界の中での日常が描かれていました。特に6話では主人公が料理するなど、女性らしさも。夫婦喧嘩というテーマも、素朴で悪くないです(子供の母親をチート能力で治療したみたいに、強引な解決方法ではなかったのも評価できます)

主人公はRPG世界の住人として定着しようとしていますが、「チート」の面白さはゲームをゲームとして扱い、その機構をいじって弄ぶところにあると思うので、ゲームの「モブ」を人間として認め、共に生活することに違和感を覚えます(そのゲームを無茶苦茶にする方がチートの快楽に沿っています)。

くまクマの場合、最初から主人公には特権性があります。チート能力だけでなく、他のキャラは全員人間ではない、NPCなのだという点が主人公の優位性を決定づけます。この状況下で、主人公がNPCを人間のように扱い、ゲームを現実のように捉えること自体、自己欺瞞で不誠実です。転生先で日常を過ごそうとする作品はちらほら目にしますが、特別な力を持った人の日常は、百合日常ものが描く日常とは全然違い、そもそも日常ではないのです(ゲーム内存在と同じような日常を過ごすこともできない)

2020年秋アニメに一言(3、4話)(11/23)

『魔女の旅々』3、4話

3話前半は人を養分にするこわい花畑の話で、後半でイレイナちゃんが魔法を使ってその不幸の連鎖を解決するのだろうと思ってたら、後半は全然関係ない、「幸せを瓶に詰めてるサイコパス」の話になっちゃった!(どういうことだ?)

3話に来ていきなり意味がわからないことに。

仮に原作がそうでも、その通りアニメ化しなくてもいいはずで、花の話は、イレイナちゃんの魔法使いとしてのプライドからして解決するのが自然だし(そうでないとイレイナちゃんのナルシスティックなほどの自尊心が独りよがりの空疎なものになってしまいます)、後半の話は奴隷の少女の最後の涙からして、あの村長の息子と平和な将来を送るのだと、そう締めくくればいいのに不穏な感想を残すのは変です(不穏に終わらせるなら、少女が泣いたあと、村長の息子くんの抱擁を少女が嫌がるなり逃げ出すなりの描写が必要です。その後も二人揃って旅立つイレイナちゃんを見送ってはいけません)。最後のイレイナちゃんの一言は、ただイレイナちゃんの性格が歪んでいるという印象しか与えません。

原作のおかしさをアニメは補わないといけません。加えてアニメはストーリーの意図を映像で明瞭に伝えないといけません。そのどちらもができてないように見えました(花の話はまだホラー小話として受け入れられても、村の話はちょっとびっくりでした)

4話。一緒に闘ってくれるという申し出にメリットがないと断るイレイナちゃん。イレイナちゃんは本当に独りよがりなのだということがわかりました。かなり問題ありなその性格には驚きですが、4話はストーリー自体に難があるわけではありません。

イレイナちゃんの利己主義的性格がなろう系の、俺つえー系の流れを受けているのがわかります。それ自体はよいとしても、このアニメが1、2話で開いていた、少女の“成長”物語の可能性が、この性格によって(この性格から伺える作品類型の特徴からして)途絶したことは残念です(全体を俯瞰したときに2話と3話の繋がりが切れていることがわかるでしょう)

関係ないですが、ChouChoさんのED、『魔法使いの嫁』のOPに似てませんか。

 

『戦翼のシグルドリーヴァ』3、4話

3話は、死神と呼ばれるほど仲間を亡くし、見送ってきた主人公が、自分だけでなく館山基地の皆も死にゆく仲間を見送ってきたのだと知り、自己の苦悩から世界の苦悩へと視界が開いていくストーリー。よかったですね。でも個人的に、この手の作品には、自我に閉じこもっていて欲しいですが、そういう作品ではなさそうなのでしょうがない(百合日常ものの流れを受けての、三人称の作品なのだ)

4話、ギャグ回を挟む余裕があったのか。

 

ご注文はうさぎですか? BLOOM』3、4話

リゼシャロの通うお嬢様高校の紹介の後に、ここあ・ちやの通う一般的な高校の紹介。最初にお嬢様高校の華美を褒めて、マヤメグの二人がそこを進学先に決める。その後にここあ・ちやが自分たちの学校で、学園祭の準備をクラスメイトと楽しそうにしている様を描き、お嬢様高校にはない和気藹々とした校風を見せる。学園祭にヒロインの皆で行くなど、その学校の描写を更に加える。そして最後にチノちゃんはそこに進学しようと決めるのである。施設的に偏差値的にお嬢様高校の方がいいはずだが、その基準では測れない学校のよさを、学園祭の準備と実施という(前者の高校と比べて)2倍の描写量で描いている。それによりお嬢様高校との条件差を埋め、学校の魅力のバランスを取っているのだ。両校の生徒が制服を互いに着合う(着せてもらう-着させてあげる)という挿話は、象徴的な互酬である。このバランス感覚と、思いやりの応酬こそ、この作品の長所であり、百合日常ものの長所だろう。

そして「終わらない学園祭前日」ではなく、ヒロインたちが学園祭を終え、ちまめの3人も進学という将来へ進んでいく、この時間の進みもまたごちうさの特徴だろう。

 

『アサルトリリィ』3、4話

ゆゆ、心開くの早い。

過去を仄めかしたりして、意味深な魅力のあるキャラだったのに、解けるのが早すぎです。確かに穏和な雰囲気の方がいいですが、まどマギ・ほむらちゃんみたいに引っ張ってもよかったと思います。今後どうなるかに期待。

 

安達としまむら』3、4話

4話。安達が三つある選択肢の中でカラオケを選んだのは「解釈違い」だったが、カラオケの雰囲気に馴染めないことを、その後二人が共有しあったため「解釈一致」に至った。

二人ともはしゃいで遊ぶのはガラではないのである。

宇宙人ロリにしまむらの関心を取られて嫉妬するのは流石に安達の常識を疑うが、そこは多めに見よう。

二人の顔に髪の毛の一本一本がまとわりついているように、このアニメは少女の面倒臭いほどに繊細な気持ちの揺らぎを、独白を通して視聴者の心にまとわりつかせる。見終わったあとには青春の香りが鼻についているのである。

 

『おちこぼれフルーツタルト』3、4話

そういえばシグルリも4話は水着回だった。なんで?
百合日常ものに求めるのは、大きな夢に向かっていく少女でもなければ大きな胸でもないというのは、私の好みというより持論でしょうか。日常の平凡さや、周辺的存在にとっての自信に満ちた平凡な生を肯定するのが百合日常ものであって欲しいですね。

 

『くまクマ熊ベアー』3、4話

OP、EDからはフェミニンを感じるけど、本編は、男が女性キャラを選んでゲームをしてるようで、主人公が女性であるがゆえの特徴がありません。

今更ですが、原作の順序を変えて蛇退治の話から始めたのは、株をやってて金持ちという設定が最初に出てくると、視聴者の気持ちが離れるからという配慮だったのでは(おそらく違う)

調べると主人公は現実には戻れない(つまりただVRゲームをしているだけの少女というわけではなくSAOみたいな設定)らしく、1話のせいか、その点がわかりにくくなってますね。

それにしても、

異世界転生ものは、伝統的なRPGゲームで無双する作品群なのだとすれば、ソシャゲで無双する作品群もあってもよさそうですが(異世界転生ものの中の一ジャンルとして?)、ソシャゲにはそれだけの共通の「形式」がないということなんでしょうか。ガチャを引いて美少女キャラを集めて多対多で闘うという形式はソシャゲの形式だと思いますが、その世界に行って無双すれば異世界転生もの@ソシャゲ版ができそうですよね(艦これのアニメが近いのかな(しかし転生はしてなさそうだし無双もしてなさそう))

 

『まえせつ!』3、4話

3話。ライバルであるJKクールのネタが面白くないと思うのですが、それは私の主観?(本来微妙でなくてはならない先輩の「ふりいくっ!」の漫才の方が面白かった気が……)

アニメで漫才は表現できないのか(ツッコミの声に元気がないのが原因なのかもしれない)

冒頭、部屋でのヒロインたちの様子を、テレビの視点で覗く演出はよかったですね。テレビは漫才をブームにした媒体ですから。ヒロインがライブの映像をYoutubeに投稿するところは現代的ですね。

 

 

 

 

 

2020年秋アニメに一言(2話目)(11/19)

『魔女の旅々』2話

イレイナ優しすぎる!

魔女の国に来たイレイナが、安宿働きの子にぶつかられて、ブローチを盗まれて、安宿で泊らざるを得なくなって、勝手に部屋に入られて、タダでその子に魔法を教えるハメになる。

どうして怒らない!

前話で師匠に言われた「我慢しちゃダメよ」の教えは忘れたのか!

腑に落ちませんね。

 

『戦翼のシグルドリーヴァ』2話

そういえば舞台の館山といえば、2019年台風15号の被害で大変なことになってましたね。一転、復興アニメに見えてきます(観光施設潰してますが)

しかし、「神」からもらった「英霊機」に乗って戦う巫女風の少女、サムライ、大和撫子、等々、設定や台詞のうちに危ういナショナリズムを感じますね。

似たような作品で『ガーリー・エアフォース』があります。そちらは航空自衛隊小松基地とイベントしたり協力してもらったりしてましたが、内容は非政治的な、無難な男女の通じ合いで、1クールアニメとして悪くはなかったです。

『戦翼の〜』は、OPがナナヲアカリということで、ハピシュガを思い出します。どことなくこの作品も、ハピシュガと同じオタクの体臭を感じます(それは「神」がいなければ、感じないものなのかもしれない)

 

ご注文はうさぎですか? BLOOM』2話

既にOPがいい曲に聞こえてきました。不思議ですね。

2話の主人公はシャロちゃんだ。シャロちゃんは唯一の労働者である。

それにしてもさすがか、ごちうさはギャグが心地よい。

キャラクターたちが、それぞれ互いを幸せにする。百合の概念では収まらない、無制限な他者への尊重が画面を満たしている。

 

『アサルトリリィ』2話

EDのスカート翻りは『ef』か。赤い糸はまどマギとか化物語にもあったかな。シャフトのお得意演出ですかね。

学園は公的機関だという説明と、アジールだという説明がありました。

『艦これ』からといえばそうですが、大人が不在の、少年少女だけの自治空間、その高揚感は、『とある』の学園都市を思い出します。

濃厚な百合と適度なギャグもあって面白くなってきましたね。マギについての謎が大事になるのかな。

 

『おちこぼれスイーツタルト』2話

聖地は東小金井。アニメ聖地の関東一極集中。地方の悲しさがあります。

ブロッコリーの歌は、『はるかなレシーブ』のシークワーサーの歌並みの中毒度がありますが、最近はサントラに曲を入れたいからか、アニメ内のCMソングが出てきたりしますね。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AE%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

ところで、貫井はゆちゃんと『ゾンビランドサガ』の二階堂サキちゃんが似てると思ってるのは自分だけかな(どちらもワイルド系のキャラクター)

f:id:tautology-TetsugakuJP:20201116225427j:imagef:id:tautology-TetsugakuJP:20201116225431j:image

並べると容姿は似てないですが、『ゾンビランドサガ』も佐賀県という土地に密着したアイドルの話なので、その点で本作のストーリーとも被ります。奇妙な共鳴。

2話で主人公とはゆが通う高校は「元女子校」という設定ですが、校舎は中央大附属高校がモデルで、2001年に男女共学になる前は男子校だったそうです(つまり逆)。

 

安達としまむら』2話

頭撫でてもらったり、手を繋いでもらったり、股の間に入れてもらったり……トニカクカワイイを見てる気分になってきました。この百合濃度は死者が出る。

安達がしまむらの友達二人を許してたので意外と柔軟性があるのだとわかります。しかし宇宙人と安達が仲良く話し始めると帰っていました。安達はそうじゃないとね。

しまむらの顔の可愛さ・美しさを語っていましたが、好きな理由として顔のよさを挙げるというのはこの作品の持つ現実主義が表れています。親との関係を友達に見られる恥ずかしさ、それを敢えて描き出すセンスもそうです。現実の細やかな部分を取り出して描くことで、安達としまむら、二人の関係のリアリティ、繊細さをより際立たせてくれます。女の子が同性に恋愛感情を抱くことを当たり前のように描く作品もありますが、この作品はそうではなく、普通の現実の中でその関係が展開されているという緊張感、特殊性を率直に叙述しているのである。

 

『池袋ウエスト・ゲートパーク』2、3話

2話はカレー屋でのブラックバイト、3話はYoutuberの対立煽り(?)という内容。

ブラックバイトの話は良かったですが、Youtuberには優しすぎて違和感しかないですね。組織を騙して使ったのだから懲罰の雰囲気は欲しかったですが、主人公が好意的すぎて簡単に許されたなぁと(これでは組織の威厳が感じられなくなります。序盤に威厳を欠いてはいけないでしょう)

 

『まえせつ!』2話

1話から大宮駅近くの喫茶店「伯爵邸」が頻繁に出てきます。聖地だ。

吉本芸人のふりいくっ!さんの声が浮いてますが、そこは寛大な気持ちで見ましょう。

アニメの絵で漫才を見るのは初めてですが、笑い声が入ってないからか、それともネタの問題か、声優の問題なのか、漫才部分はあんまり笑えなかったですね。大喜利部分は笑えました。どうしてでしょう。ネタの問題にしておこう。そうしておこう。

アニメ自体を、彼女たちの日常自体を、漫才風にしてしまうことも、手法としてはできたと思うのですが、2話を見る限り、あくまで芸人の下積み生活をリアル寄りに描こうとしているようです。落語の『じょしらく』的な感じではない。芸人になるという目標を持ちながらもゆるゆるな生活をしている女子たち、という物語もできるとは思いますが、『まえせつ!』はそのあたりも至って真面目です。ちょっとストレートすぎるかなと思います。らきすたの可愛らしい絵をいかせてないのでは、とも思います。

 

2020秋アニメ(1、2話)に一言!(11/16)

『魔女の旅々』1話

師匠の理不尽な要求に対して我慢せず自分の気持ちを示せ(そして自分を守れ)、というのは、TwitterMetoo(女性の自立)やブラック企業への反発において見られる抵抗の言説と似ている。世相を意識したか。

そんなことより、主人公の声、花澤香菜だと思ったら花澤香菜は師匠の方だった(なんと!)

 

『戦翼のシグルドリーヴァ』1話

リゼロの作者のオリジナルアニメということですが、『結城友奈は勇者である』の作者タカヒロさんのオリジナルアニメ『RELEASE THE SPYCE』をなぜか思い出しました。つまり専門外の人に任せると失敗しそうでこわい。

謎の柱が地球に立って謎の生物が地球に危害を加えようとしているので戦闘美少女がパイロットとして空中戦で地球の危機を救うという設定。エヴァとか『ぼくらの』とか、最近だと『プラネットウィズ』とかありましたね。社会不在なのでセカイ系とも言える。

しかし『最終兵器彼女』だと、まるで作者が、個人的なほろ苦い恋愛の過去を、世界の崩壊という比喩を使って語っているような、私小説めいた陰湿さがあるので面白いのですが、この『戦翼の〜』は『デート・ア・ライブ』のように、ただ美少女が命をかけて闘うだけの、パニックもののスリル感に魅力の全てを預けているような感じがあります。

個人的な問題を表現するために世界が比喩にされる場合と、社会的な問題を表現するために世界が比喩にされる場合(『プラネットウィズ』はトランプ批判みたいな感じがしましたが)とがあって、そのどちらでもないエンターテイメントは、根っからの娯楽作品というのが自分の見方です。

1話に1時間かけてるしオリジナルアニメということで作画の気合いも十分ですが、その点が垣間見られて微妙。まどマギの後進作品が微妙だったのと同じ理由で微妙。

この微妙さをいつもなら「思想性がない」といいます。もちろん、思想性がなくても面白い物語は面白いのですが、さぁどうでしょう。

 

池袋ウエストゲートパーク』1話

石田衣良といえば池袋ウエストゲートパーク(でも直木賞4TEEN)。池袋ウエストゲートパークといえば石田衣良なんですが、今更のアニメ化です。

似てる作品で『デュラララ』が出るけど、最近のアニメだと『博多豚骨ラーメンズ』がある。

この手のジャンルは何ていうんだろう。不良少年もの?

今じゃ半グレなんて言葉もあるので、不良も可愛らしくありません。

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4125548.html

頭にネジを突っ込まれます。

こういう不良ものに限らず、地名を全面に出したラノベがあってもよさそうだけど、思いつきませんね。みんな異世界へ行きすぎでは。

1話は導入としてはよかったかな。主人公は青物屋の息子。私の個人的な話ですが、青物屋の息子さんで、現役ヤンキーな人をこの間見かけたので、その設定(イメージ)はあながち現実と乖離しているわけではないという。

 

『アサルトリリィ』1話

舞台をやったりゲームをやったりアニメをやったり「メディアミックス」のお手本をやってるね。

https://www.azone-int.co.jp

ここプロジェクトの中心・アゾンさんのHPですが、古臭くていいね。

最初に映される「スイレン」の字。スイレン=water lily、lilyは英語で“百合”。純粋のイメージということで、リリィに込められた意味がわかります(つまり百合! 百合!)

そして江ノ電の「タンコロ?」という昔の電車に乗るところから始まります。また江ノ電! また鎌倉! 江ノ電、聖地疲れしてませんか。

そして主人公のタイツの上から漏れ出る太ももが、とんでもない丸み! ここまで太ももを女性器として描けるのはシャフトぐらい。

シャフトアニメということで、ヒロインのりりとゆゆがまどかとほむらにしか見えない。髪色も性格も。

場所とか時間のフォントは、もうちょっとカッコいいのでお願いしたいかな。

主人公・りりの声優は赤尾ひかるさん。『こみっくがーるず』、『えんどろ〜』(振り返るとどちらも良作!)で両方ともピンク髪の弱々しい主人公を演じてましたが、アサルトリリィでもそうですね。そういう声優として定着したということかな。

EDはまどマギのOPのそれですが、シャフトは同じ演出を使うね。

EDカードは氷川へきるさん。最近はVtuberのぽんぽこ・ピーナッツくんの生放送でコメントしてる常連のファンというイメージですが、ぱにぽにの作者です。

鎌倉の切通しでの戦闘がありましたね。鎌倉の切通しというと、鈴木清順ツィゴイネルワイゼン』では、生と死、あの世とこの世の境として効果的に使われていました。アサルトリリィは舞台が鎌倉なので、非日常、死のイメージを匂わせてるという解釈ができます。つまり切通しの奥に位置する学園は、あの世である。不穏なはじまりですね。

それはそうと、このアニメも『戦翼の〜』とかぶって「セカイ系」ですね。ʅ(◞‿◟)ʃ。。

 

ご注文はうさぎですか? BLOOM(第3期)』1話

種田さんって休業してたよなぁ、なんて思いながらリゼちゃんの声を聞く。

今まで気づかなかったが、ごちうさはシャロちゃんがいないと全員富裕層になるのだ。

OPは映画までの曲が良かった分、大久保さん、ちょっと今回はダメだったか?(意外とスルメ曲かもしれない)

10年後まで制服を着ると意気込む彼女たち。10年後……。百合日常ものでは、女の子たちが今を永遠にしようとする。その健気さは悲痛でさえある。

 

安達としまむら』1話

このアニメが今期一の可能性がある。

入間人間というと『電波女と青春男』が思い浮かびます。やっぱりセンスあるんでしょうね。

宇宙服を着たキャラは入間人間の個性だとして、安達としまむらの二人の繊細な関係は心にグッとくる。しまむらには友達がいるけど、安達には友達がしまむらしかいない。友達の友達とは仲良くなれないというのはどうしてかというと、付き合い方の様式が異なるからでしょう(そう考えると付き合い方にはかなりの種類がありそうだけど、実際にはそんなことはない)。自分も痛いほどわかる(落ち着いた付き合いでありたいのに、その友達と向こうの友達との間ではそうではないとかね)。そのあたりの事情(違和感の理由)もちゃんと独白のテクストとしてアニメに挿入されている。

安達としまむらの関係についての描写は普遍的。つまり意外とありふれてるけど、ラノベなんかではほとんど問題的に描かれないような、非類型であるような普遍。そこに焦点を当てるのは、タイトルに「青春」のつくそこらへんのラノベより「青春」を掬い取っている。見事。

「不良だからいいか」といって自転車を二人乗りするところは遊戯的で、日常の中で持っておくべき「ゆとり」が描かれており、作者の個的な人生観が顔を出している。だから“ベタな”ウユニ塩湖演出で彩られても、ベタさをさほど感じないのである。

制作の手塚プロダクションは、『五等分の花嫁』の燃え尽き作画崩壊の思い出しかないが、どうしてこれほど飛び抜けて画面が綺麗なのだ。是非この調子で続けてほしい。

 

『くまクマ熊ベアー』1、2話

絵がかわいいなと思って視聴を始めると、まさかの俺つえー系。VRゲーム=異世界ということで、女の子が俺つえーをするのですが、株をやってて親に大金を振り込む描写で見る気が失せました(というか15歳なんだよなぁ)。

 

(以下、Wikipediaより)

“15歳の女の子だが、(……)うるさい両親や面倒なクラスメイトとの交流を厭い、3年程前から引きこもり生活を送るようになる。凄腕のトレーダーとして株取引で億単位の金を稼いでおり、異世界に召喚されるまでは、その稼ぎで購入した高級マンションで一人暮らしをしていた。その頭脳・才覚から、大きな会社を経営している祖父からは自身の後継者としても見込まれており”

 

原作はなろうで書かれたということでお察し。俺つえーといえば『転スラ』を思い出します。意外と認知されてないかもしれませんが、俺つえーは現実世界でもお金持ちでエリートという設定がついてきます。すごいですね。しかしこんなジャンルに子供たち(?)はハマっちゃうわけです。この手の主人公は全員職業Youtuberにしてください。その方が子供たちにも受けるし、大企業エリートよりまだマシです(そうか?)

全話見るか見ないか悩みどころです。

 

ゴールデンカムイ』三期 1話、2話

言うことなし。

と思いましたが、1話からホモネタが多い。

乱用されるホモネタを同性愛差別の文脈で論じることもできる。しかし物語の中での機能を考えれば、この作品には女性のヒロインが存在せず、更に緊迫した展開が続くので、小休憩としてホモネタが使われるのだと考えられる。当然腐女子文化への目配せもある。アイヌが気軽に性的なことを口に出すように、男の裸とその関係を映すことで、アイヌと同じ自然性を強調しているのかもしれない。男性の裸や伝わってくる体臭が、読者や視聴者の自然を目覚めさせ、日本人を“人間”にし、アイヌと非アイヌの差別的境界を取り払ってゆく。ホモネタ、いや、ネタではないその同性愛描写は、実は政治的な企てなのだ(!)

 

トニカクカワイイ』1話、2話

高校受験に失敗して浪人。合格したけど高校行かずにバイト。主人公のその経歴に、作者の社会への慈愛を感じる。初デートが夜中のドンキで布団を買うというのも。風呂がなくて銭湯というのも。つまり庶民の感覚。

主人公の声優の榎木淳弥さん、声が面白い。笑いを誘う声だ。前は下野さんとかがこういう感じだった。適役ですね。

内容は夫婦の初々しい日常。どストレートなデレデレ。主人公の童貞感が気持ち悪くならないのは、絵の可愛さと声優のおかげか。こんなにどストレートなのろけ模様はアニメで見ることは少ないと思うが、これはオタク文化の底にある「かわいい」の力、それを信じているからこそできる作品なのだ。「かわいい」の点ではごちうさと被るが、しかし本作は、ごちうさにはない(今では)危険な異性同士の恋愛というテーマを、堂々と真正面に赤裸々に、暴露のごとく描く、そのために「かわいい」を利用しているのである。「トニカクカワイイ」。そう。“とにかく”カワイイを使って、異性愛恋愛を描いてやる。男性側の暴力などといってる時代に対しての、作者の「トニカク」の気概を感じるのである。

 

『おちこぼれフルーツタルト』1話

きららアニメだけどエロ多めという感じ。原作者は『ハナヤマタ』の人。たれ目が個性的。

アイドルを目指す話だが、アイドルものは好きではないので、エロ多めも含めて微妙である。

制作会社はfeel. 個人的にfeel.はエロのイメージがある。

モデルや歌手の「おちこぼれ」が集まってアイドルを目指すという設定は共感もできるし、適度なリアリティもあるが、日常ものや百合ものを期待する身としては、労働している女の子の姿はできるだけ見たくないと率直に思うものである。

 

『まえせつ!』1話

吉本興業が企画協力。芸人さんが声優で出てる。

キャラクターの絵は『らき☆すた』の美水かがみさん。

舞台はさいたま。そこもらきすたですね。

内容は、高卒でバイトしながら漫才師を目指す少女のお話です(トニカクカワイイは高校中退でバイトしてるので、高卒なだけ地位が高い?)

コロナの影響で放送開始が延期になったということなんですが、冒頭のエアバンド演奏のシーンから顔のアップが多くて、作画が心配である。

アイドルものにしても芸人ものにしても、現実では体育会系の人々の、闇な関係(人や女性を物として扱ってたり)を経験しないといけないと思いますが、それを言ってはおしまい。

漫才のテンポと萌えアニメのゆるいテンポは噛み合わないと思うのですが、そのあたりをどう調和させるかは、注意して見ていきたいと思います。

 

 

「かわいい」を横断的に考える――笹木咲はかわいい――

 

最近は、「にじさんじ」の「笹木咲」が「かわいく」て仕方ない。「にじさんじ」というのはいちから株式会社が事業展開する「バーチャルユーチューバー」のアイドルグループの名称と言っていい。「バーチャルユーチューバー」というのは……と説明しだすとキリがないので、「笹木咲」の画像を見てもらった方が早いだろう。

 

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これはおどけた調子の笹木。いかにも彼女は健気だ!

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これは前髪をいじる笹木。”かわいい”自分にこだわる強い意識!

画像は下の動画からの参照。


【3Dお披露目!】みんなほんまーにありがとう。【笹木咲/にじさんじ】

 

まぁ誰が見ても「かわいい」だろう。

私は3Dアバターでの初配信を見たときに衝撃を受け、笹木にハマり込んでいったが、もちろん二次元の立ち絵もかわいいことに変わりない。

私は「かわいい」ものに触れたとき、胸の真ん中がほのめいて、頭がぽかぽかする多幸な心地に入ることがある。性的満足よりも持続し、しかしあまりその状態が続くと呼吸が不足して脳の前部が痛くなるのだが、いずれにせよ「かわいい」がもたらす幸福感は中毒的なそれである。笹木にはいつもそういう心地にしてもらっている。

 

とはいえ、これ以上主観的な話を続けるつもりはない。私が今日話したいのは、「かわいい」の文化的問題と心理的問題の、(その二点の)少し知的な考察である。

 

 

1.かわいいの条件――宮崎(2019)と入戸野の研究を参照する――

 

笹木は髪の色も目の色もピンク色である。

宮崎(2019)の「『かわいい』対象と感情の分類」という論文は、今年の八月に発表されたばかりの心理学に基づく「かわいい」研究である。宮崎(2019)は、かわいい感情を喚起する因子とかわいい感情の種類について、見事に分類化してみせている。

かわいい感情を喚起する因子は次の四つに分類できるらしい。

 

・色彩 : 彩度が高くて明るい色、もしくは明度が低い色(パステルカラーなど)

・ベビースキーマ : 後述する

・ファンシー : メルヘンチックなもの、ロリータファッション、人形といった、「女性らしさ」の認められる文化的なカテゴリー(ベビースキーマという生得的因子ではないことが特徴)

・不気味 : トカゲ、蝶の標本、人体模型など、ネガティブに評価されがちなもの

 

この分類によると、「ピンク色のもの」は「ファンシー」に該当する。つまり笹木のピンク色は、かわいい感情を引き起こす因子として認められるのだ。それも女性らしさという極めて文化的共時的な取り決めにより、規定されてある因子として(この点はあまりこだわる必要はないか)。

 

更に、笹木は見るからに童顔な印象がある……ということは皆、同意してくれるだろう。この点については、「ベビースキーマ」という因子と関連付けることができる。

 

「ベビースキーマ」とは、「かわいい」研究にとって非常に厄介な概念である。

この固定観念と化したベビースキーマと、その権威の超克に取り組んできたのが、現在大阪大学 大学院人間科学研究科の教授を務めている入戸野宏だろう。宮崎(2019)も彼の先行研究の流れを受けている。

 

ベビースキーマとは,オーストリアの動物行動学者Konrad Lorenzが1943年の論文で提唱した概念である. 英語では,baby schema,babyishness,babynessなどと訳され,人間や動物の幼体が持っている身体的特徴をさす. 前田(1983)によれば,(1) 身体に比して大きな頭,(2) 前に張り出た額をともなう高い上頭部,(3) 顔の中央よりやや下に位置する大きな眼,(4) 短くてふとい四肢,(5) 全体に丸みを持つ体型,(6) やわらかい体表面,(7) 丸みをもつ豊頬,といった特徴である. このような特徴を持った生物や模型はかわいらしく(愛らしく)感じられ,周囲の個体の攻撃を抑制し,接近・養育・保護などの行動を受けやすくなると考えられている. Lorenzは,ベビースキーマに対する反応は,遺伝的にプログラムされた内因性のプロセス(生得的解発機構)によるものであり,刺激を持つ要素的な特徴によって生じると提案した.

(入戸野宏「“かわいい”に対する行動科学的アプローチ」,2009,広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究 4巻)

 

このようにわかりやすく説明されているベビースキーマ仮説だが、実際にこの仮説を裏付ける研究が後続したことから、人間の生得的な反応として認められているようだ。要するに、上記の条件を備えたものはかわいい感情を喚起する、というシンプルな説なのだが、この説が支配的になるにつれ様々な誤解が生じてきた(というより、かわいい研究ではこの説に基づいて、かわいい対象の知覚的条件ばかりを研究することが主流になってしまった。それゆえに「かわいい」が、幼児に対する生物的反応として限定的に研究されるにとどまってしまった)。

まず、幼なければそれだけベビースキーマが多い、というわけではない。これまでの研究で、人間の生まれたての赤ちゃんより1歳程度の赤ちゃんの方がより「かわいい」と評価されることがわかっている。

更に、井原なみは・入戸野宏(2011)の「幼さの程度による“かわいい”のカテゴリ分類」(広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究 6巻)によって明らかになったのは、「低幼い×高かわいい」という評価があり得ることである。“笑顔”、“ハート”、“女性”、“パステルカラー”などがその対象に当たる(これらは決して幼くないし、それゆえベビースキーマの要件を満たさない)。即ち、幼いわけではないが「かわいい」と感じられるものがある、ということがわかってきたのだ(例えば、キモかわいい、や、おばさん=幼くはないものに対してかわいいと感じたりすることがある。これは日本文化では極めて常識的なことかもしれない)。こうした入戸野の流れを汲み、宮崎(2019)の研究では、かわいい感情を引き起こす様々な因子のうちの、あくまで一要素として、「ベビースキーマ」を位置づけている。ベビースキーマだけではかわいい感情の全体を掴むことはできないのだ。

 

笹木の可愛さについてだが、二次元のキャラは笹木に限らず、ベビースキーマの要件を満たしているものが多い、ということは直観的にわかる。必要条件ではないが、十分条件として、こうしたベビースキーマの要素が機能し、笹木を「かわいい」と感じさせているのだろう(いちから……そんな狡猾な罠を笹木に仕込んだのか!)

 

さて、宮崎(2019)の研究に戻るが、「かわいい感情」は以下に分類できるらしい。

 

・日常的かわいい : 色鉛筆やたまごボーロなど、日常的になじみのあるものに対してのかわいい

・か弱いかわいい : この中で最もかわいい平均評定値が高かった“最強”かわいい感情。子供などのか弱い存在に対するもの

・独特かわいい : メルヘンチックなものやロリータファッション、牛に向けるかわいい感情

・キモかわいい : トカゲ、蝶の標本、人体模型など一見気持ち悪い対象に向けるかわいい感情

 

独特かわいいとキモかわいいは隣接しているように思われるが、まぁ、この分類を見れば、幼いものに対して抱く「かわいい」のみならず、多様な「かわいい」が存在することがよくわかるだろう。

 

また、入戸野(2009)の「“かわいい”に対する行動科学的アプローチ」の研究では、

 

“かわいい”は,頼りなく,弱く,小さく,緩んで,遅く,軽いといった性質をもち,親しみやすく身近である.

広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究 4巻. 24頁)

 

と分析し、古賀令子の『「かわいい」の帝国:モードとメディアと女の子たち』(2009,青土社)の内容を紹介している。

 

古賀(2009)は, 2000-2006年に松本章氏が女子大生を対象に行った調査を引用し,“かわいいの素”は,丸い(形),明るい(色),柔らかい(感触),あたたかい(温度),小さい(大きさ),弱々しい(構造),なめらか(語感)であると述べている.

 

小さくて丸く、弱弱しい…………しぃしぃ!?

確かに、椎名唯華は赤ちゃんのように柔らかそうだし、目は大きいし、緩んでるし、喋りも遅いし、ファンから“大福”と呼ばれるぐらいには、丸い。更にしぃしぃの基調である白色は、かわいい感情を引き起こす色と言われている。笹木よりも条件が整ってるのか!? 許せない……。

 

 

2.かわいいの機能

 

近年,ShermanとHaidtは,かわいさに対する反応(cuteness response)を,社会や個人への関心や福祉と結びついた道徳感情として捉える仮説を提案した. かわいいと感じることは,保護や養育に関係するというより,相手に社会的価値を認め,交流しようという動機づけを高めるものであるという. このとき相手に心的状態を認めるメンタライジング(mentalizing)の傾向が強まる. 動物や人工物を人間のように扱う擬人化もメンタライジングの一種である.

(入戸野宏「かわいさと幼さ : ベビースキーマをめぐる批判的考察 <解説>」2013, VISION. 25巻)

 

ベビースキーマ説では、かわいいという感情は子供の養育という生物的役割を促し、助長する機能を持つと、捉えられていた。しかし入戸野は、かわいい感情が「保護したい」「困っていたら助けたい」といった養護動機を引き起こすというより、その対象を「そばに置いておきたい」その対象に「近づきたい」といった接近動機を引き起こす感情とみなすべきだと主張している。実際に「かわいい感情」が養護動機よりも接近動機に関連していることを、論文「対象の異なる“かわいい”感情に共通する心理的要因」(井原なみは・入戸野宏, 2012, 広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究. 7巻)の中で明らかにしている。

かわいい感情が接近動機を高め、その対象との交流を促進するものであるなら、このような人間の機構を、デザインや産業の分野でも活かすことが出来るだろう。実際にそうした取り組みは既に始まっている。かわいいものに触れた後は集中力が高まるという研究もあり、デザインとして取り入れることで自動車の運転などにも活かせるのではないか、アニマル動画を流すことで仕事の効率化が可能ではないかといった話があるらしい。また、かわいいものを傍に置いておくと、街頭アンケートに答えてもらいやすいという調査結果もある。自治体のゆるキャラなどもこうした機能を利用しているのだろう。私もいずれ、いちからの策略により、笹木咲を通じてお金を落とす羽目に陥ることは想像に難くない。

「かわいい」はこうした機能の発見もあって、商業化されている。カワイイが人を引き付けるなら、それを利用して金を稼げる。自国の「カワイイ文化」を対外的にアピールして、マーケットを作ろうというわけだ。2009年には外務省がポップカルチャー発信使、通称「カワイイ大使」を任命し、日本ファッションの海外発信を行った。NHKは2008年から2013年まで「東京カワイイ★TV」を放送。日本のカワイイ系ファッションを発信し続けた。2010年には経済産業省に「クール・ジャパン室」が設置され、国策の一つとなった。更に2012年の第二次安倍政権では、稲田朋美が初代「クールジャパン戦略担当大臣」となる。翌2013年には375億円を集めてクールジャパン機構が設立される。「クールジャパン」の名の下、日本のカワイイ文化は海外へ発信され、市場が本格化していく。2017年に設立されたいちから株式会社は「魔法のような、新体験を。」と宣って、かわいいを利用したYoutuberビジネスを進めている。「萌え」ビジネス、恐ろしや……

嫌味な書き方になったが、最初に引用した文章にあるように、かわいいはその対象に社会的価値を見出し、ポジティブな関係を構築する上で重要な感情となり得る。この心理学的な知見は、一旦、価値中立的なものとして認めておく必要があるだろう。それをどのように利用するかは、二次的な問題である。

 

 

 3.かわいい文化を批判する――西村(2015)の「かわいい論試論」に同意しつつ――

 

どんな事象に対しても、それを肯定的に捉えるか、或いは批判的に捉えるかで、スタンスを大別できる。かわいいに対して、私は後者を選び取りたいと思う。

笹木咲が大好きで、配信を追いかけ、少し前には『邪神ちゃんドロップキック』のゆりねちゃんが好きになり、ゴスロリファッションに身を包んだ赤髪キャラという最高の取り合わせに萌えを見出してはアニメを二周した男が、かわいいを批判するとは、一体どうしてしまったんだ!

だが、私は、かわいい病とも言うべき、自身のかわいい熱に延々とうなされたからこそ敏感になったのだ。「カワイイ」に対して……。看過できない政治性が、そこにあるようだ。

 

私が随分驚いたのは、かわいいについての論評で、楽観的な意見が多いことだ。

例えば、情報処理学会の学会誌『情報処理』(2016年)に掲載された特集記事を見てみよう。

学習院大学政治学科の教授・遠藤薫氏の書いた記事である。(リンクはページ下部に有)

まず、英語の「cute」には「利口な」「知的な」というニュアンスがあり、か弱きものへ使うことのある(というよりそれが主である)日本語の「かわいい」という言葉に完全に対応しているわけではない、という話から始まる。外国語ではそのような関係を言い表すことができないので、「Kawaii」が外国の辞書に登録されるようになったという。

 そしてそこから、日本独自の「かわいい」概念がどういう文化的諸相に見られるかを紹介していく。招き猫は近代化により神への信仰が変質する中で生まれた、かわいいキャラクターであるという話は、なかなかに面白い。そして竹久夢二は西欧のジャポニズムの延長にあり、アメリカが生んだキューピーは東洋文化から影響を受けているという話になる。つまり現代の「かわいい」ものは、一旦西洋を通過していたり、西洋に影響を与えた結果生まれたものが、いわば逆輸入されていたりするという話だ。

そこで出てくるのがこの図である。

 

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『情報処理』57巻 2号,121頁より

 

言い方は悪いようだが、企業理念か何かのようにしか見えない。「常に外部と融合し、新たな創造を繰り返す」、なるほど、きれいな言葉だ。要するに西洋は理性主義で階層的だが、日本の「カワイイ文化」はそれに抵抗する異質な価値観であり、平和的に外部を吸収していく文化であるから、積極的にこの強みを発信していくべきだという趣旨である。

 

『繊維学会誌』66巻7号(2010) には竹内忠男氏の記事が載っている。

こちらも基本は、「かわいい」に日本文化を認め、西洋に対する土着性としての「かわいい」を推進する論である。どうやらこうした論旨は、四方田犬彦の『「かわいい」論』筑摩書房(2006)と、宮元健次の『日本の美意識』光文社新書(2008)から由来しているようである。

彼らが言うには、日本のカワイイの始まりは、あの清少納言の随筆『枕草子』にあるらしい。少し長いが、145段「うつくしきもの」の現代語訳を引用しよう。

 

かわいらしいもの。瓜にかいてある幼い子どもの顔。すずめの子が、(人が)ねずみの鳴きまねをすると飛び跳ねてやって来る(様子)。2、3歳ぐらいの子どもが、急いではってくる途中に、ほんの小さなほこりがあったのを目ざとく見つけて、とても愛らしい指でつまんで、大人などに見せた(様子)。髪型を尼のように肩の高さで切りそろえた髪型である子どもが、目に髪がかぶさっているのをかきのけることもしないで、首をかしげて何かを見ているのなども、かわいらしい。

大きくはない殿上童が、美しく着飾らせられて歩くのもかわいらしい。かわいらしい様子の子どもが、ほんのちょっと抱いて遊ばせかわいがっているうちに、しがみついて寝たのは、とてもかわいらしい。

人形遊びの道具。蓮の浮き葉でとても小さいのを、池から取り上げたもの。葵の大変小さいもの。何もかも、小さいものはみなかわいらしい。

とても色白で太っている子で2歳ぐらいになるのが、紅花と藍で染めた薄い絹の着物などを、丈が長くて袖を紐で結びあげたのが這ってでてきたのも、また短い着物で袖だけが大きく目立っている様子で歩いているのもかわいらしい。8、9、10歳ぐらいになる男の子が、声は子どもっぽくて読書をしているのは、大変かわいらしい。

鶏の雛の、足が長く、白くかわいらしい様子で、丈の短い着物を着ているような姿で、ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の前や後ろに立って歩いているのもかわいらしい。また親(鳥)が一緒に連れ立って走っているのも、皆かわいらしい。雁の雛。瑠璃の壺(もかわいらしい)。

マナペディア https://manapedia.jp/text/1668 2019/11/6確認 より

 

学校の授業で習ったような習ってないような気がするが、確かにかわいらしいものを列挙している。古語の「うつくし」にはかわいいという意味があったという。

更に、かわいいの語源は「かわ-はゆ・し【顔映】」であり、「はずかしい。良心がとがめて顔が赤らむようだ」精選版 日本国語大辞典という意味であった。

 

このように“かわいい(かわゆい)”は,もともと“気がひける”,“恥ずかしい”という意味であり,(……)中世(鎌倉時代から安土桃山時代)には“見るに忍びない”の意から気の毒で不憫という意味で用いられた. 中世後半に,女・子どもなど弱者への憐みの気持ちから発した情愛の念を示す意が派生し,近世(江戸時代)になると“かわいい”という変化形が生じた. 近世後半では不憫の意は消失して,愛らしいの意のみとなり,さらに愛すべき小さいさまという属性形容詞の用法も出現した. 原則的に目上の者が目下の者に抱く情愛を示す表現であり,目下の者から目上の者への情愛を示すには“いとしい”が用いられた.

(入戸野宏「“かわいい”に対する行動科学的アプローチ」, 広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究 4巻. 21頁)

 

「気の毒で不憫」の意味があっただって!?

「かわいそう」という意味が昔、「かわいい」にあったということだろう。笹木咲は、マリオパーティーでワルイージにいじめられたり、マインクラフトでロクサスというペットを水死させてしまったり、オンラインクレーンゲームで人に割り込まれ、多額をつぎ込んだ目当ての品を横取りされたりと、不運で不憫なキャラとして通っている。不憫かわいい。そう。不憫であることが、かわいい感情を刺激するのだ! 宮崎(2019)が分類したところの「か弱いかわいい」である。あはれで、いじらしい笹木は、見事にかわいいの核心を押さえていたわけだ! これは驚き。笹木の萌え戦略、なんてしたたかなんだ……。

 

というのはさておき、彼ら(宮本や四方田)はこうした語源を肯定的に解釈する。つまり、「かわいい」とは「未完の美」に通じる日本人の美意識であると。西洋では大人は子供になるための過程であるが、日本人は小さきものや未熟なものに向けて「かわいい」というポジティブな価値を認め、発達段階的な成長の神話を拒否する点が、西洋を相対化しうる独特の日本的心性なのだと。そして、弱者や価値がないとみなされているものに向けて、かわいいと感性的に評価することで、そうした弱者を捉え直す価値転換の役割を担っている。未完であることを尊び、はかなさに価値を見出す日本人の美学が、かわいいにも通底しているというお話だろう。

先ほど挙げた図の中で言うところの、「弱いものへの愛と包摂」である。

 

 そういう風に言われると、何だか「萌え」や「かわいい」が“尊い”感情にも思えてくるが、私にはどうも楽観的で、胡散臭い筋書きに読めてしまう。

遠藤(2016)の図にある、「弱いもの、対抗するものへの愛と包摂」、「対立ではなく微笑み」という綺麗すぎる言葉……。

 

その胡散臭さを言語化するために、海外への萌えコンテンツの発信を「パブリック・ディプロマシー」「ソフトパワー」という概念で捉える必要があるだろう。

外務省の「よくある質問集」のページには、その用語のわかりやすい説明がある。

 

広報文化外交 | 外務省

 

要するに、自国の文化を他国に輸出し、軍事力ではなく文化という力によって、その国との外交を円滑に進めるということだ。その国の大衆に日本文化を広報することにより、日本との心理的距離を近づけ、「親日的」な大衆を作ること。そうした地ならしによって、自国の外交を有利に進めることができ、利益に資することができるわけだ。

このような概念のもと、「Kawaii文化」を眺めてみると、「弱いもの、対抗するものへの愛と包摂」という言葉が、権力を帯びて見えてくる。間違いなく「包摂」はしているのだ。しかし「包摂」とは、「ソフトな支配」の言い換えではないか。そして「対立ではなく微笑み」というが、その微笑みとは、自己を脅かさないよう相手を丸め込み、相手をおもうままにコントロールしようとする、“抑圧”の仮面ではないか。みんな仲良くしよう!と呼びかけ、場を均質化し、対立する意見を、一方の支配的な意見の側へ「穏やかに」回収してしまうあの欺瞞的な微笑み。その微笑みこそが、かわいいの持っている微笑みなのではないか。

 

 「例えば、不憫なゆえにかわいいとか、気持ち悪くてみなに相手にされなくてかわいいとか、いわば上から目線の支配的な心情がそこに見え隠れする」と言い放つ西村(2015)の論は、遠藤(2016)や竹内(2010)の楽観的な日本文化論よりも、よっぽど正鵠を射ているように思う。

 

西村美香氏は、「かわいい論試論」の中で、かわいいに対し、大胆ながらも、「支配欲(もしくは庇護欲)」「ご都合主義的政治的用語」「商業的うまみ」の3点から批判している。

 

 例えば「商業的うまみ」という観点でいうと、「今日の『かわいい』がこれまでの日本の美学といわれた『わび、さび』などと決定的に違うのは、それが商業的展望をもち大きな利潤を生みだす核となっていることだ。(……)これまでの日本伝統文化とは異なり『かわいい』はまったく高尚ではない」(135-136頁)と述べている。「高尚ではない」というのは、「かわいい」を日本古来の高級な美学として価値づける論者への批判であろう。

しかしこの文章の中では何といっても、「支配欲」についての語りが面白い。

 

誰も相手にしないが自分だけが良さを分かり、自分だけがチョイスし、自分が救ってあげることで、そこに愛情が生まれ、「かわいい」感情が芽生えるのである。それは対象物をまるで所有物のように自分の配下に置き、上から見下すかのような感情ですらある。(……)そして「かわいい」はそれを言われたものは、そこに上から目線や、見下した(ときには馬鹿にしているような)感情を読み取りながらも、「かわいい」が本質的には褒め言葉であるため、言われて居心地の悪さを感じることはあっても侮辱していると怒るほどのものではないと言われるままにひきさがる。(……)この状況は、白黒をはっきりつけたがらない、ときには奥ゆかしくそしてまわりくどい、人間関係を円滑に進めようとする日本人の心情にぴったりなまさに日本的思考である。(134-135頁)

 

厳しい見解だが、かわいいには「支配ー被支配」の関係がある、という指摘は同意できる。この文章の後には、女性が主体となってかわいいの支配ー被支配関係を利用し、誰かの庇護の下に入ろうとする実態をも指摘している。自らかわいいキャラとなることで、人に依存し、人間関係において都合よく振る舞える余地を確保する。そうした支配ー被支配のシステムの稼働する「かわいい」制度を、上手に使い、取り入ろうとする女性の姿。自己を「かわいい」に適合することで、「甘え」ることができるばかりでなく、好意的な評価を利用し、社会での地位を獲得していく。

これは女性に否があるのではない。むしろ、女性にかわいいを付与して、被支配に置こうとする、男性優位の構造が、女性をそういう風に生きさせていると言える。つまり「かわいい」は、どこかで女性差別と繋がっている。

かわいいには「か弱いかわいい」という分類があったことを思い出そう。基本的には、自分に危害を加えたり、脅かしたりするような対象に、かわいいという感情を抱きはしない。女性を「かわいい」ものだと社会一般の言説が評価する限り、女性は「か弱く」「脅かさない」存在として定位され、認知される。「かわいい/かわいくない」が女性評価における優位な審級となることが、それ自体で、女性への抑圧として機能しうる。かわいいと評価する主体が、男性であれ女性であれ、その規準を受け持っているのが女性や子供である限り、力あるものに馴致される、被支配の側へ回らざるを得ないのではないか。

 

また、「かわいい」が、弱きものにポジティブな価値を見出す、価値転換のシステムであることに注意するなら、以下のストーリーが考えられ得るだろう。

一定の時代まで、男性に視られるフィギュアであった女性が、社会に進出しようと、そしてそこで自立的に生きようとして生み出した、アイデンティティ確保の手段。女性という弱い存在をポジティブに捉えようとして、「かわいい」を負担するようになった(かわいいを自らのものとして受け入れ、使役し、社会的価値を高めようとした)女性は、その次に、その語が上から下への情愛を伝統的に示す言葉であるという事実に直面しなければならなかった。つまり、情愛を差し向けられる対象へと、結局は収まらねばならなかったという悲劇。たとえ「かわいい」を女性が他者・他物へ使うようになったところで、その担当を逃れられるわけではない。視られ、評価される対象であることを、依然として受け入れねばならないわけだ。

カワイイ文化の発信者は、海外や市場を相手にしているようだが、寧ろ見つめるべきは、この文化に内在する、差別構造の拭い難さではないだろうか。

このあたりの考察を、今後、探求していきたいところである。

 

 

 

【引用文献】

 

入戸野宏(2009). “かわいい”に対する行動科学的アプローチ 広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究. 4巻.

doi.org

 

井原なみは・入戸野宏(2011). 幼さの程度による“かわいい”のカテゴリ分類 広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究. 6巻.

doi.org

 

井原なみは・入戸野宏(2012). 対象の異なる“かわいい"感情に共通する心理的要因 <短報> 広島大学大学院総合科学研究科紀要. I, 人間科学研究. 7巻.

doi.org

 

入戸野宏(2013). かわいさと幼さ : ベビースキーマをめぐる批判的考察 <解説> VISION. 25巻, 2号.

ir.lib.hiroshima-u.ac.jp

 

宮﨑拓弥(2019). 「かわいい」対象と感情の分類 北海道教育大学紀要. 教育科学編. 70巻, 1号.

s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp

 

遠藤薫(2016). 「カワイイ」の哲学 ―その歴史的パースペクティブと現代的意義― 情報処理. 57巻, 2号.

id.nii.ac.jp

 

竹内忠男(2010). 世界に発信する若者ファッションと文化—世界に謳歌する日本の「かわいい」ファッション、その意味するところとは— 繊維学会誌. 66巻, 7号.

doi.org

 

西村美香(2015). かわいい論試論 明星大学研究紀要人文学部. 51号.

id.nii.ac.jp

 

 

【参考図書】

 

古賀令子『「かわいい」の帝国:モードとメディアと女の子たち』(2009, 青土社

「かわいい」の帝国

「かわいい」の帝国

 

 

四方田犬彦『「かわいい」論』(2006, 筑摩書房

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)

 

 

宮元健次『日本の美意識』(2008, 光文社新書

日本の美意識 (光文社新書)

日本の美意識 (光文社新書)

 

 

コッポラ『地獄の黙示録』を観て思うことなど

 

私が“コッポラ”の名を聞いたのはいつだったか覚えていないが、はっきりと彼の映像を見たのは大学の講義の時だった。

 

映画に関する講義で、特段知識もないので映画批評の言語でも学ぼうかと思い受講したのだが、広い講義室で真面目に話を聞いているのは数人しかいなかった。あとの数十人は寝ているか、LINEをつついている“学習アレルギー”の人間たちだ。状況はまさに『アポカリプスなう』である(※『Apocalypse Now』は『地獄の黙示録』の原題。ここでは「終末的だ」ぐらいの意味合いで使われており、とーとろじい氏によるギャグである)

 

講義では『地獄の黙示録』の序盤、米兵がヘリからワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」を鳴らして「ベトコンの基地」を襲撃する、“かの有名な”場面を取り上げていた。

(もちろんその時の私は、この場面が“かの有名”であることさえ知らなかったのだが)

 

このシーンでは、勇壮な「ワルキューレの騎行」がヘリ内に鳴り響く一方、標的であるところの村のカットに移ると、突然静寂が映像を支配する。そして次第にかの有名な「ワルキューレの騎行」=米兵のしるしが大きくなって聞こえてくる。この迫りくる恐怖の演出は、音と映像の現実的合成によって生まれている。音源元であるヘリでは音が大きく、その他のヘリでは(音源から離れているため)音は少し小さく聞こえ、襲撃前の村では物理的に聞こえるはずがないので無音であり、しかし襲撃後はかの音楽が村の混乱とともに空を舞っている。いわば、音をちゃんとその現場で鳴っている音として演出しているわけだ(他の方法だと例えば、どこから聞こえているのか不明な挿入歌など、音源元を考慮しない表現がある。こちらの方が一般的だろう。そもそもBGMは映像の外からつけるものであって、映像の中で、実際にその場に流れているものとして想定されることはほとんどない)

講義では上記のような、映画における音と映像の組み合わせが語られていた。大雑把に言えば美学・芸術論のお話である。

 

というわけで、コッポラといえば講義でチラッと見た『地獄の黙示録』の監督で、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞し、他には『ゴッドファーザー』なんかがある、作家性の強い著名な監督という印象が私の中にあった。

有名な作品を見ていないのは無知であり、無知は最も恐ろしい言葉であり、私は生来の“無知アレルギー”なので、ここは一回観ておこうか、となったわけだ。

 

さて。

 

なんて長い映画だ!

 

……と観終わったあと思ったのだが、私が観たのは完全版であった!

これは2001年に出されたもので、未公開シーンを加えたために3時間22分の長尺になっているものなのだ(ちなみに「ワルキューレの騎行」が使われているワーグナーの楽劇『ワルキューレ』も上演時間3時間40分だという。奇妙なシンクロ)

公開当時のバージョン(オリジナル版)は、カーツの王国を爆破するラストになっており(これでは信徒であるベトナム原住民を殺戮したと解釈されかねない)、コッポラの平和的意図が誤解されてしまったため、完全版では爆破シーンをなくしている。なので完全版の方が作者の思惑に忠実で、全体を汲み取れる作りになっていると言えそうだ。

 

私は観賞後に、「この映画の宗教的で神話的なラストは、一体何を意味するのか」と、戸惑いを覚えた。それはカーツという存在の、意味についての問いでもあった。おそらく「この映画は駄作だ」と評する多くの人は、ラストを解することのできなかった人間に違いない。ここに引っかかりを覚えるのは寧ろ自然でさえある。

 

この点について、物語のテクストを忠実に読み込もうとするブログ記事を見つけた。

Yoshio Sasaki氏の『人生論的映画評論』(※リンクは最下部に掲載)というブログである。(注1)

アメリカの「マニフェスト・デスティニー」の標語に代表される覇権主義的国土文化を指摘し、それがベトナムという妖怪により「アメリカン・ニューシネマ」の台頭を促し、本作をその最終到達点と位置付けている、尤もで丁寧な批評である。

氏によれば、カーツという存在はアメリカのベトナム戦争における大義の欺瞞さ、国家が戦争をするために根拠とする当の物語が希薄かつ脆弱であることに気づき、米国を見捨て、自身による物語の補完を行なった。その結果があの王国なのだという。

 

これは映画を忠実に追っていけば当然的に至るところの解釈である。主人公のウィラードが読む報告書とそれを受けての感情の変化、完全版で追加されたフランス人の会話などから見えてくるのは、ベトナム戦争の根拠のなさ、大義の欺瞞さ(それはひいてはアメリカの欺瞞さなのだ)への批判である。そしてカーツは、戦争への強い意志と物語を持ったベトナム人に「ダイヤモンドの銃弾を受けるごとく」感銘を受け、独断で、戦争に勝つための正しい判断(二重スパイの暗殺)を行なった。これは米軍に喝を入れる行為であったが、軍部に糾弾され、カーツは米国を見限るのである。

 

主人公・ウィラードもまた、旅の途上において米軍の愚かさを目撃し、カーツへ同調していく。

 

「これが我々のやり方だった。“機銃を浴びせて手当てする”ーー欺瞞だ。見れば見るほど、欺瞞に胸がムカついた」

 

「機銃を浴びせて手当てする」とは、共産主義からベトナムを守るため、という美名を使って、わざわざ軍事介入をするアメリカと重なっている。

 

物語の大枠としてのメッセージは、なるほどその通りであろう。しかしそんな批判意識を強烈に持つ存在であるはずのカーツは、なぜあんなにも歪な独裁集団を作ってしまったのか。カーツをアメリカ社会へのカウンターとして全面的に肯定するプロットでも良かったはずだ。

 

ここにはやはり、戦争の方法しか知らない軍人・カーツの憐れさが表れていると言うべきか。彼は実際、ベトナム人の合理的で冷徹な殺人手段や判断力に感動しているのであり、軍人としてのプロフェッショナル、徹底性を求めるその生き方が、あの王国ーー疑わしいものらを処するあの独裁を生んでしまったのか。いわゆる、戦争の、人間をして非人間ならしめる悲惨さを、彼の王国は示しているのか。

自分の居場所が戦場にしかない者の悲哀。戦争によって非人間化されてしまった彼の精神の実体的表示。そう捉えることは妥当だろう。なにせ主人公もまた、冒頭やフランス人の未亡人との会話からわかる通り、ジャングルを求める戦争の精神的奴隷、閉塞状況に陥っているわけだ。

 

だが王国にはもっと別の意味内容が込められているようにも思われる。

 

古賀・山本(2008)は、原作に当たるコンラッドの小説『闇の奥』と結びつけて論じている。(注2)

『闇の奥』は、ベルギー国王レオポルド2世による植民地・コンゴへの搾取政策を批判する作品だ。『地獄の黙示録』は「現代の(ナウな)」ベトナム戦争へ舞台を移し、この原作に依拠しつつ翻案している。

船乗りの主人公・マーロウはコンゴ川を遡行し、音信不通となった象牙採集人・クルツという人物の探索に向かう。貿易会社は原住民を酷使して象牙を採取し、利益を得る植民地支配の悪しき担い手である。マーロウは川を遡行する途上で、文明開化の美名のもと、西欧により搾取される未開社会・コンゴの実情に触れ、怒りを覚える。クルツは大量の象牙を採取するエリート的人物だったが、ヨーロッパはアフリカに対し積極的に文明化を進めるべきだという啓蒙主義を称揚する人物でもあった(野蛮人を皆殺しにせよとまで主張していた。この文言は『地獄の黙示録』のラストの赤字の走り書きと関連しているようだ)。失踪したクルツは、川上の奥地で原住民を信者として従え、彼らを使って近隣の部族から象牙を略奪したり、反逆者に対しては首を切って竿に刺すなど残酷な処刑をする独裁者になっていた。マーロウが出会ったクルツは病身であり、船で連れ出すものの、「The horror! The horror!」と叫んで死ぬ(これも黙示録のカーツの最後のセリフで使われる)。この『闇の奥』の大筋を『地獄の黙示録』は引き継いでいる。ちなみに操舵手が槍に刺されて死ぬのも同じである。

となると、カーツが王国を築き上げるのも、原作の『闇の奥』に準拠して設定されたと考えられる。原作からの要請であるとすれば、王国の不自然さ、わざわざカーツが王国を作るという展開も納得できる。おそらく映画のラストに違和感を覚えた人も、原作がこうだから、と説明されることで了解できるかもしれない(そもそも槍で胸を突かれる場面も映画に必要であったかどうか不明であるし、そこに違和感を覚えた人も原作の存在とその物語を知ることで納得できるだろう)

 

コッポラによる『闇の奥』の読み直し、「現代の」『闇の奥』としてのベトナム戦争、現代版『闇の奥』としての『地獄の黙示録』、という風に考えたとき、ラストの違和感や疑念をある程度整理することができるのではないか。

 

カーツは彼の顔がなかなか影から出てこないことからもわかるように、ミステリアスでどこか「かっこいい」存在として演出されている側面がある。しかしこの演出は、少しミスリードではないだろうか(オリジナル版では更にそうしたキャラクターが強調されていたようだ)

というのもカーツの意味内容は、

 

(1)ベトナム戦争に対する理念=反共の尤もらしい理念を掲げながら、アメリカは実際には植民地主義的意識に基づくベトナム民族への支配と殺戮を企図し、実行しているという欺瞞の告発、その批判の代弁者としてのカーツ

 

(2)他方で、自分自身も理性を失って、ベトナム民族を支配し、利用し、搾取する、アメリカの植民地主義的意識(ベトナム人に対する優位意識)に従い、アメリカの闇の姿を体現してしまう存在。アメリカの表象としてのカーツ

 

が考えられ、カーツをかっこよく描いてしまうと、(2)の役割(自分自身も愚かなアメリカであること)がわかりづらくなってしまうのだ。

 

それに加えて、完全版ではウィラードに対し、『タイム』を読み上げ、ジャーナリズム批判まで展開する(注3)

 

こうしたアメリカ批判の代弁者的役割が強調され、ヒロイックな印象を強めてしまうと、ラストの彼の死をどう解釈していいか観客は戸惑ってしまうわけだ。(一部ではカーツをかっこいい指導者として受容する人もいるだろう。しかしそう解釈するとなると、王国の異常さをどう説明していいのかわからなくなるだろう)

カーツと彼の王国は、アメリカの美辞麗句のスローガンを剥ぎ取ったあとに残る、真のアメリカの姿を表象しており、基底にある無反省な覇権主義が現実に形をとったなら、それはカーツの王国のように、他の主導者(国)の台頭を許さない(それはソ連を許さないのと同じだ)自国第一主義、父権主義の独裁的国家となってしまう。そしてそれがアメリカの本質なのだ、とコッポラは暗に示しているわけである。

 

だからラストでは、彼を殺さなければならなかった。それは今までのアメリカを反省することであり、30万人を超える自国の人的損害を発生させ、帰還兵のPTSDやその他精神疾患の問題(これはマーティン・スコセッシタクシードライバー』やスタンリー・キューブリックフルメタルジャケット』の方が主に問題として扱っている)等を遺すことになった負の歴史を見つめ直すことに繋がる。

このラストに関しては『闇の奥』とは差異があるため、まさにコッポラのメッセージが込められた重要な場面というわけだ。

 

その方法が神話的かつ過度に美的で、やや抽象的であったために伝わり切れていないのではないかという疑問は残る。

カーツという記号にどのような意味内容を認めるかによってブレが生じてしまう作りにはなっている。私の観賞後の引っかかりもそこに原因があったわけだ(だがその引っかかりは、『闇の奥』の植民地主義批判の文脈や、テクストを参照すれば上記のように捉えることが可能だと思う)

 

なお、参考書としては“かの有名な”立花隆が『解読『地獄の黙示録』』(文藝春秋, 2004)を出している。

Amazonページ ー 解読『地獄の黙示録』

 

 また、少し付随的な挿入になってしまったが、(注3)に記載した伊藤正範の論文「『タイム』を朗読するカーツ : 『地獄の黙示録』におけるジャーナリズム」(2012)では、コンラッドのジャーナリズム批判をコッポラも別の方法により組み込んでいる、という非常に面白い内容になっているのでお勧めする。

とりわけ、Matthew Ruberyの脱身体化→神秘化、そして再身体化という概念図式は面白い。文字による伝達が、発言者の身体的条件を無化してくれるとともに、神秘化が発生する。その危険性を回避するために、作者を生身の人間として再身体化し、現実性に引き戻す試みが『闇の奥』、そして『地獄の黙示録』において見られるという指摘だ。

確かに、どんなに業績や学歴が良くても、或いはどんなに正当な論理を展開する識者であろうと、それがその人の全体性を意味するわけではない。このことは、TwitterSNSの広がった現在において、重要な指摘を含んでいるかもしれない。

ただ残念なことに、Matthew Ruberyの書籍は翻訳されていない。

 

というわけで、この辺で切り上げるとしよう。

 

 

 

(注1)Yoshio Sasaki. 2008. 「地獄の黙示録('79) フランシス・F・コッポラ」. 『人生論的映画評論』. 2008年11月20日. 最終アクセス 2019年10月2日. 

https://zilge.blogspot.com/2008/11/79f.html

 

(注2)古賀元章・山本一夫. 2008. 「『闇の奥』と『地獄の黙示録』における人間の内面描写」. 『福岡教育大学紀要』57: 33-39.

http://hdl.handle.net/10780/243

 

(注3)伊藤正範. 2012. 「『タイム』を朗読するカーツ : 『地獄の黙示録』におけるジャーナリズム」. 『商学論究』60: 647-665.

http://hdl.handle.net/10236/10424

 

 

【参考文献】

田久保浩. 2019. 「遍路と文学 : 『闇の奥』における旅と物語」. 『キリスト教文学研究』36: 15-25.

https://repo.lib.tokushima-u.ac.jp/113283